「友だち作戦」はアメリカ軍が大震災で南三陸町などの被災地救助にとった救援活動名です。全世界、全国からの支援により、南三陸町は復旧復興への道を歩んでいます。南三陸町のみなさんは全てが友達であり一体となり、喜び、苦しみ、悲しみを共有しながら、共に南三陸町で今後も生活して行きたいと思っています。

町民のための議員としての原点はここから

2009年10月の選挙

2013年10月27日町議選挙
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石巻日赤まで35分


仙北の中核病院としての役目を担う「石巻日赤」に入院していた二人、どんな状況かと心配し、「面会申請書」に項目を記入、受付に提出し許可証を頂き病室へ行く。
社長と呼んでいる為、正確な名前が判らず困った。「何階なのか?」も知らず病院に来たものの、知人に電話で聴き、だいたいで提出する。面会の注意書きに目を通して「チェック」を入れ、4階へのエレベーターに乗る。
日赤病院に一つ注文をしたい。網膜剥離で視力の低下から、面会申請書の書く場所は、私に取っては暗すぎる。一か所くらい証明が明るいと助かる。また、「老眼鏡」も置いておくだけで多くの人達が重宝する。

日赤は4年ぶりだろうか。糖尿からの網膜剥離で2回の入院をしているので、だいたいの病院の状況は判っているので、院内の部屋を探すのは容易かった。
親戚の叔父は入院から2か月と2週が経つ、4人部屋で「最悪の状況」を考えていたので、ベットを間違えた。「きっと顔もかわっているだろう。」との、勝手な予測からだ。聞き覚えの声が聞こえた。大分痩せたが以前と同じ姿の叔父がいた。医療の進歩は凄いと実感した。看護師の接客も以前と同じ、親切で丁寧だった。
多く人からの情報から、「くも膜下出血」ので、機能・意識・記憶の障害がこれまでにはあった。年末に聞く話に、石巻日赤病院には「脳外科」の名医がいると言う事だった。家族も早期の異変発見と迅速な治療で、現在は何の障害も無く、現在普通に生活している。

もう一人の方も、救急で南三陸病院から石巻日赤への搬送で、大事には至らなく3週間目の今は、「わざわざ申し訳ない。」と、私を気遣う事のできるまで回復していた。この病院なら、こうした町の救急体制なら、町民の命を少しでも多く町民を守れると思った。南三陸海岸ICから、100K前後の走行で「35分」で、日赤まで到着する。この事からも「命の道」としての三陸道も大きな意味を持ってくる。
これ以上町から、「佐藤町長に意見を言える人」が、居なくなることは大きな町づくりの弊害となる。「良かった。」これが私の実感です!」

佐藤町長の復興計画に町民が「ノー!」


志津川地区の「中央団地」の、一般公募の建設内容の変更があり、2区画の100坪で200坪を地元の事業所が、水産業の従業員の宿舎とする構想が、町長と事業所の思惑の合致で、残った土地活用があった。町の復興に資する事業なら、復興交付金を使い、事業所にも建設費として、県から2000万円・町から1000万円が補助される。同じ事業所は震災後にアパートも既に建設し、震災による再建補助も得ている。一部の会社を優遇する、事業の補助のアドバイス? こうした裏での動きを勘ぐってしまう。アパート建設にあたり、建設ごとに何度も補助金なら、一回だけの補助とする事も、国民の税金の公平な活用となるのだか。今後行政に正していきたい。
「李下に冠を正さず」と言った。佐藤町長の発言はいったいなんだったのか? 復興の為ならなんでもありか!

中央区の2区画でのアパート建設の議会での「補正予算」の討論に、今野議員が質問で行政の当初の入居の要綱の変更を問いただした。関連や別角度からの質問は、さすがとしか言いようがない。私が落選してから議会を若手が大きく変えていた。
4名の議員が地区民からのこの問題を聴いているものの、「高台移転(防集)」「町づくり」などの議論で、私なども質問をするつもりながら、今回の議会中はできなかった。昨日で議会も終わり、この問題がどうなるか心配だ。地区民の動きがカギながら、町は町民の不安を取り除く方向は描いていないようだ。すでに東地区は集合住宅(アパート)が、区画を確保して建設へと進み、従業員が外国人か否かがその問題の根底にもある。従業員の国内での生活の秩序を指導するのも、雇用事業所の重要な役目としてある。


これが南三陸町長の合併の取り組み(問答)


12月議会一般質問(原稿作成1)
問 旧志津川町と旧歌津の両議会の決定である「新町庁舎建設」を新町初代町長として、なぜ実現させなかったのか。
答 合併協議の過程で、商工団地付近を建設候補の一つとして、二年以内に着手することを合併協定書で取り交わした。
 町は、「南三陸町庁舎建設検討委員会」を設置し、検討を重ね平成十八年二月に「まちづくり住民意向調査」の結果、整備すべきは全体の十四・五%だった。
 多くの町民が建設を望まなかった状況や、厳しい財源状況などを鑑みれば、庁舎建設を見送った当時の判断は間違っていなかったものと考えている。
問 被災民の一次ら二次
避難、高台への「終の棲家」の移転の六年八か月の経過は、行政の計画どおりか。
答 災害公営住宅及び防災集団移転促進事業の整備は、概ね計画どおりに進捗し、志津川中央住宅が昨年度末と、三年三か月で完成した。遅延したとは考えていない。
問 これまでの六年八か月の経過による、町民の損失をどう考えているのか。
答 本町では人口減少が加速度的に進展した。平成二十七年度の国政調査では、被災市町が大幅な減少となっており、本町も人口減少に対応した取り組みを展開している。
問 災害公営住宅の五年間の家賃の軽減策は、震災復興は十年の復興計画であり、家賃の軽減策を十年間に延長すべきではないか。
答 住民の安定確保を図るため、家賃の低廉化事業と、低所得者の負担を軽減する家賃低廉事業を復興交付金事業として実施している。
 本町は、家賃低廉化事業で二十年年間、低減事業でさらに減額されている。低減事業は当初の五年から六年目以降は、段階的な通常家賃に上げていく。
 昨年度に「町営住宅条例」を改正し、裁量階層の入居収入基準を上限まで引き上げ、町独自の家賃低廉化に努めている。



気仙沼市「つばき会」


震災前から近海・遠洋など、サンマ・かつお・まぐろ漁に向かう、船の出船を大漁旗で見送る。昔からのからの風景ながら、以前は家族が総出で父親や主人を送ったが、現在は外国人の乗組員も増え、以前のような風景は消えうせた。命を掛けた漁師の出船を、漁中の品々の積みこみの商店の女性、ホテルの女将などが「つばき会」を立ち上げ、10人前後の仲間と共に出船の見送り活動を、震災前から続けていた。

そして、今回の大震災でミ乗組員の減少や、担い手不足など、気仙沼市の漁業は厳しい状態の中にある。漁業・漁師を目指す市外からの担い手育成の活動している。震災後から漁師の素晴らしさを写真で、カレンダーに載せ、気仙沼市の漁師の勇ましさを紹介した。
震災後に漁業の被災地支援で訪れた女性は、このプロジェクトに参加し、ベテラン漁師との交流が生まれ、漁師の姿・風景をカレンターに載せた。出来上がったカレンダーを示し、添えられた彼女が書いたメッセージを読みあげ、漁師は涙した。
メッセージには「魚の刺身をこれまでは残していた私です。震災の時に漁師さんは、大切な船を守る為に命がけで沖に船を走らせた。命がけで船を守り、命がけで漁をする漁師さんの魚を、粗末にはできないと、その話を聴き知った私は、その後は刺身を残さず食べている。」と言う。
彼女はそれから気仙沼に移住し、漁師さんの姿をカメラで写真に撮り続けている。メッセージを読んで上げた後、70歳前後のお父さんは、涙が止まらなかった。漁師は「こんなの弱いんだよな、ながせんなよ、カメラ撮るな!」と目の涙をぬぐった。漁師は強さと優しさを併せ持つ、素敵な職業です。
カレンダーを被災地支援としてではなく、「商品として欲しい、素晴らしいと。」買ってくれた若者は言う。

そんな活動が南三陸町にもあるが、町では観光・商売と、ボランティアによる漁業の支援ばかりだ。心温まるこんな活動が、私の暮らした港町にはあったが、今は金儲けとしてしか感じられない。寂しい!

南三陸町の森友・加計問題?


今日の朝刊に「南三陸町の高台移転(中央区)に、新たな建設規定に住民への説明不足!」と報道されていた。佐藤仁行政の強行・独断政治が続いている。そこには今年の流行語の「忖度」はなかったのか。
選挙での「5020票」の町民の支持を声高に町長は言う。政治への関心の無さが露呈した結果だ。対抗馬は町外から来たボランティアで、当然の結果と皆が言う。
「地域住民の納得を得て。」との12月定例議会での一般質問の後藤議員への説明もあり、自分だけの思い通りにはならない事を知って欲しい。私は佐藤町長の反対勢力として、仁町政の横暴政治を監視と言う立場で、町民の声を伝え追及して行きたい。
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千葉のぶたか

Author:千葉のぶたか

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