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 「友だち作戦」はアメリカ軍が大震災で南三陸町などの被災地救助にとった救援活動名です。全世界、全国からの支援により、南三陸町は復旧復興への道を歩んでいます。南三陸町のみなさんは全てが友達であり一体となり、喜び、苦しみ、悲しみを共有しながら、共に南三陸町で今後も生活して行きたいと思っています。

町民のための議員としての原点はここから

2009年10月の選挙

2013年10月27日町議選挙
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志津川魂で

2011-05-01 15.02.29
志津川地区細浦の海岸線の防潮堤が、本格に始まっていた。震災から7年9か月になっての事です。8.7mを基準とする南三陸町の津波防潮堤整備は、震災復興予定の10年では終わらず、12~13年と全て完了まで予定している。それだけの大工事なのでしょうがないとも感じる。
この地区の住民の仏事事を担っているのが、私の父の一番下の妹の嫁いだ「徳性寺」であり、檀家を震災後も守っている。大震災の「札所」として、活動を始め、震災の慰霊をこれから続けて行く。

コクガンの現状を視察に、内密に皇室が以前来町したと聞く。日本の自然生息地の維持保全に取り組んでいた。「志津川愛鳥会」があり、代表の田中先生がいた。志津川十日町に子供達を集め、町内で生きる鳥たちの事を調査し、朝の探鳥会など、自然に暮らす鳥や、ケガをした鳥を保護し、治療し自然に返すなどの活動をしていた。田中先生は生き物を大切に守る事を、子供達に教えた。もう30年前に先生が亡くなり、その継承の活動は私には見えない。
イヌワシの里としての志津川町があった。現在は志津川と横山の中間にある「翁倉山」に、多い時は4組いた物が、今は「1組」だけになったと報じられていた。自然の変化や人間の進入など、多くの問題が自然に暮らす鳥の場所を減少させている。今から50年前は、海も山も自然がいっぱいだった。

民泊が100軒あったものが今は40軒と、観光客の受け入れ態勢がある。観光客の受け入れに「パーティー」や「バーベキュー」などでの交流提案もあった。会話については、英語を話せる人が少なく、外国人とのコミャニケーションがとれないと話す。今後として外国人と話す機会を、趣味を通しスポーツやお茶会などをあげ、「サッカーはブラジルでポルトガル語など、外国語に接する事が必要です」と話す。国際人となり世界に羽ばたく子供達となって欲しい。

高野会館へ続く道の整備は、所有者の為では無く、町の希望の橋の解体が大きな理由だ。橋が解体されると残土の運搬ができなくなる為、片側3mもの大きな幅員での整備となった。総ての残土を大型トラツクでの運搬ではなく、旧小松原の姿の再生を考慮し、防潮堤をセットバックして建設する考えだ。
高野会館は今後も受難の歳月が続きそうだ。残土は現在の半分くらいを運搬し、残りはこの部分の防潮堤に充てると言う。

志津川地区の荒砥地区に出掛けた。写真は旧荒砥小学校の前の防潮堤工事とラムサール認定の志津川湾を撮影した。
写真の奥の平磯地区の入り江は津波の被害で、海岸の家々が流失し多くが移転を余儀なくされた。現在は道路の復旧工事と、津波防潮堤の工事が進み、昔の思い出が少しずつ消えて行っている。海ギリギリを通っていた道路の高さは6m以上もあった。震災の前の年? 津波発生でビデオに撮ろうと、ここで多くの地区民と海を見つめていた。前の堤防が見る見るうちに見えなくなり、海上の漁船は海を舞った。襲来は1m弱だっただろうか。そして、今回の津波は地区民と見つめて高台の道路を越え10mもの津波が押し寄せた。これを私は大津波の前兆と感じる。

今週4回目の葬儀に出席した。私の恩人・父の友・知人の父・恩人の父など、相次いで不幸が連続した。その他にも訃報を聞く。こんなにも亡くなる方があるのに、子どもが生まれたとの吉報が聞こえてはこない。他に移転した方の話は聞くが、これでは町の人口が13000人を割るのも当然だ。

震災復興の中でラムサール条約の志津川湾の保全は厳しいと思う。認定にあたり今の海岸線保全の元に生物の生息に繋がる。自然と言う事を考えれば、人の手が加えられ過ぎた「志津川湾」、震災の津波防災の町づくりでの、防潮堤や河川堤防の整備は、自然の保全を考えれば逆行にも私は感じる。
震災復興を遂げてからの認定を目指し、認定を受けなくても地区民や行政が環境整備に、時代の流れと共にやって来た事で、今の自然が維持されてきた。津波防災と自然の維持は共存はむずかしい事とも思える。


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