志津川地区の被災地も復興再建へ

東日本震災で東北地方を襲った大津波に対し、全国・世界から多くの支援を頂き、の気持ちが「恩返し」の気持ちが強くなった。。これまで国内の大災害でも、被災地への寄付などした事がない私でも、少しでもと直接熊本県庁へ、印刷組合を通した義援金、こないだも東京で集まった、「愛の福袋」の熊本のテーブルの皆さんにも、少しながら募金にプラスした。国民一丸となり被災地への支援は、東日本の災害からその気持ちが増したと思っている。
町民一丸となっては、町の職員の意識は薄いようだ。町を諦め町外に家を建て脱出する職員、被災者への心ない言葉、職員の地元事業所への支援意識低下など、余りにも「ふるさと愛」が無い行動・言葉に落胆する。若い職員も町民への感謝の気持ちが薄い。自分の力で公務員となったと鼻高々と、「町民の為にやって上げている」との勘違いしている輩も多い、公僕としてその精神を全うしているのは、5割の職員もいない気がする。そんな人間には公務員たる資格を疑問視する。
亘理町の職員の不正があり、町を離れる職員は「辞めてもらう!」との、町長の強固な発言は、町の危機感の現れと首長として当然の事だろう。
南三陸農協へ行く。震災後に福祉の里にJR南三陸の本店が建設され、三陸沿岸の農業の本店が南三陸町志津川に設置された。しかし、国の進める「農業改革」は、南三陸農協が支所となる方向へ進んでいる。
私の学んだ「志津川中学校」の登校坂が今もそのままに健在で、当時の桜もそのままに満開となっていた。今から30年前に助作の高台に中学校が、新築移転された。当時の首長の適切な判断に敬服する。この場所に中学校が移転し、震災の一時期の町民の避難所として大活躍した事は言うまでもない。12歳から学んだ3年間、現在も志中魂は健在で、この厳しい被災地の「志津川」で暮らしている。現在まで5千人も減少した。たった6年でだ。自然災害と人災が人口減の理由と思っている。人が居なくなった街の、多くの巨大な箱物が建設されている。
写真は志津川低地部に建設中の建物です。今日は我が社の土地換地の説明と、引き渡しに立ち会った。隣の土地は誰の物か判らず、広大な土地の換地者が誰なのかは今年の年末に「開示」するようだが、もう誰でも良い。我が道を邁進するだけだ。震災の風化防止と志津川字本浜町を将来に伝えたい。
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