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 「友だち作戦」はアメリカ軍が大震災で南三陸町などの被災地救助にとった救援活動名です。全世界、全国からの支援により、南三陸町は復旧復興への道を歩んでいます。南三陸町のみなさんは全てが友達であり一体となり、喜び、苦しみ、悲しみを共有しながら、共に南三陸町で今後も生活して行きたいと思っています。

町民のための議員としての原点はここから

2009年10月の選挙

2013年10月27日町議選挙
286票 次点(18人中17人目)

町の疲弊の改善は急務です。

先週の激動の一週間が終わり、大坂に原稿依頼の為に原稿をまとめ、今日にメールで添付し送った。東大阪支部の活動は今年で4年目となり、今後も南三陸町の産品の取り寄せ支援などがあり、被災地の「友好支部の活動」を続けたいと話す。震災復興は進んでいるものの、住民の移動はまだ続き、若者たちの就職先の無い町には、高齢者と外国人の労働者が、町の産業を支えている。建設業者も工事が終了と共に仮設事務所を引き払い町を後にしている。自治体派遣も残すところ4年となり、後2年も経つと町からは100人の派遣者の、いったい何人が残るのだろう。
今年のサケの孵化事業は、震災時に放流したサケが回帰しているが、その結果はこれまでにない不漁と言う。採卵の確保も10分の2程度状況と報道が伝える。町の市場の最大の水揚げ・金額を誇る秋サケ、キラキラ丼のイクラ確保が懸念される。北海道では孵化場の卵の盗難も発生している。
今年度中の住宅の区画事業が整備されるが、100区画前後が今も残っているという。国政調査では12500人にまで人口がへり、広報には住民基本台帳のデータ13500人と記されている。後半年で仮設・みなし仮設入居が終わり、特別な場合の1年の猶予を与えると町はいう。
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広島を中心とした「愛の福袋3.11被災地支援活動」に感謝を申し述べたい。今回で南三陸町には5回目となり、震災から5年8か月となり、「愛の福袋」の活動は一端終わりと言う。全国で発生する地震災害への支援も続けている事と、会員も熊本での震災被害を受け、新たな支援活動も考えての事だろう。今後も支援は別な形で続けたいと話す。

防災庁舎前での団体への「語り部」は5回目となり、戸倉小中・志中などを説明し、今は津波対策を伝えている。防災庁舎の関心は間違いなく薄れ、今後の町づくりと町の将来を心配する声が多くなってきた。
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声を大にして議論をしたい


私と同じような考えの方がいたことに、勇気と元気を頂いた。
こんなコメントがありました。

私は被災していません。が長く町に居て 感じていた「人災」「観光の町に!交流人口の町に!」の陰で住民の安心して暮らせる町は後手になっていました。壊されてしまったけれどそれでも 町を愛していた方々の暮らしを最優先課題にしていたら 財政破綻した夕張市をはるかに超えるスピードの人口流出は 防げたと思っています。シェアさせてください。

住民票も 仮設、みなし住宅が完全撤廃になれば 決断しなくてはならないでしょう。泣きながら 町を出られた方々が 脳裏から離れない…。

母校「志津川高校」への厚い思いを、皆さんのコメントから伺えます。仮設からみなし仮設からやむを得ず旧志津川町の故郷を後にした皆さんの気持ちを、復興計画に携わった方々はその苦しみを理解できないと思える、これまでの歩みと感じているのは私だけではなかった。

議会と町民の懇談会


昨夜は「議会と町民の懇談会」に行って来た。今月4日から3回の懇談会は、用事の為に最終日の8日9時の入谷公民館に出掛けた。14名の地区民がおり、震災後に入谷地区に自宅を建てた志津川地区の方もいた。顔見知りの方が声を掛けてくる、「さっぱり来ねんだもの!」と。
全員の皆さんが活発に議会に意見を述べた。初めに「議会議員1人につき住民人数何人なのか」で、約12500の報道は登米市で今も暮らす人数が入っていない。住民基本台帳の国勢調査によるもの。法令では1~2万人で上限は議員数「22人」までと、法令で決まっていると言う。議会全体の意見しか述べられなく、個人的意見は発表できないと、後藤清喜委員長は話す。次に「震災後に議員報酬を上げるべきでない。」との質問には、賛否両論があったが賛成多数で決定したと説明した。「人口を増やす考えは。」にはボランティアで来た人に、町の良さを知ってもらい来て欲しい。「議員定数は第三者が入り決定すべき。」と個々の意見を聞きたいと質問したが、議会の懇談会と個々の発言はしなかった。「議員数も定数もどうでもいい、議員の質を上げて!」と、若い女性の厳しい意見には、議会からの返答は無かった。「議会に魅力を感じない!」と、議員にとっては厳しい声を聴いた。

また、病院の受付・診察・処方箋など、一連の病院の終わりまで8時間は掛かり過ぎた。こんな意見が女性達から出た。両親を入谷から病院への送り迎えは女性の仕事としてあり、「何でこんなに時間がかかるの?」を皆が言う。朝一で8時間はまる一日と言う事になる。高齢者は「待つのが辛い!」と言う。議会の懇談会で入谷地区民が指摘した。私もしつもそう思う。
病院の開院から大分時間が掛かっているが、医師不足が最大の原因ではあるが、病院の変更は町民が出来る最大の抵抗であり、益々家族の負担となっている。対策を講じているのに、町の取り組みが見られない。患者は近隣の病院に変更しているとの話も聴く。町民ファースを考えて欲しい。

南三陸町にたった一つの高等学校「志津川高校」があり、昨年創立90年?を迎えた。大震災により生徒数の激減により、中高一貫高ながらその歯止めが効かない。そんな中で地元出身の山内校長が、志高の生徒数減少への取り組みを活発にしている。先ごろは行政と中学校の先生と高校とでの対策会議が初めて持たれた。今年が最後となる山内校長は残された時間を必死に、母校の為に尽くされている。

三陸道と南方仮設

志津川商工団地から登米市南方仮設まで、三陸道「志津川インター」から、トンネルを通過し、平均速度90Kで登米市インターまで14分、南方仮設まで35分だった。だいぶ時間は短縮したが、人はいなくなった。オリンピック村のモデルハウスだけが、静かに鎮座していた。
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南三陸町の登米市の南方仮設は静か! 集会場からは楽器の音が聞こえてきた。一期は来年6月まで、二期は8月までと言う。「早く帰りたい」と、残った被災者住民も話してくれた。
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三陸道は過疎の町or人口流出の「疲弊への道」


震災後に三陸道の早期延伸を願い、「命の道」と被災した町への政府の救済の一つとして、交付金と被災地支援の元に、多くのゼネコンが仕事を分け合い、入札率は99%で、入札価格も人材・資材不足で、大きな資金を建設会社へと支出した。そんな中で高速道のアスファルト舗装の談合も発覚した。自民の政府とゼレコンの繋がりの大きさは、官僚が政治家を操り、自分たちは建設会社などへの天下りを続けている。古くからの慣例と言う。

昨日、登米市に行った折に、三陸道で登米ICから志津川インターまでの高速道を通った。開通の10月30日の午後3時過ぎは、小森地区の高速入口まで渋滞が、防災庁舎前の信号から続き、津山・登米ICから初乗りした人たちも、小森の入口まで2㎞も数珠つなぎとなったと聴く。
登米市のインターから乗った私は、米谷~三滝堂~志津川までの通過時間は、時速80Kで20分掛かった。私が仙台までの用事では、津山インターまで商工団地の会社から25分で行ける。三陸道を利用し、商工団地から小森まで8分、登米インターから津山インターまで8分ぐらい、合計で36分も掛かる事になる。
私からすればこんなに時間の差があるなら、国道45号を通った方が時間のロスが少なく、スピードを100~120㎞に上げ、スピード違反と危険のリスクを負ってまで、高速を通る意味は無いようだ。

総理も知事も、そして町長も「命の道」を強調する。しかし、気仙沼までは時間的に間違いなく早く着く。物流と観光を捉えると、我が町にはそんなにメリットは一時的なもので、将来を考えれば観光人口・交流人口が、気仙沼市や岩手沿岸のリアス線に流れる気がする。また、ここでいつもの口癖の「想定外」との声が聞こえてくるようだ。これ以上の人口減は限界集落に、時間を掛けて向かうようだ。
高等学校の存続や、小中学校の児童・生徒の減少は、生徒間の学力の競争や人付き合いの限界で、孤立が増え「いじめ」「引きこもり」が増加するように思う。

合併し志津川町が「南三陸町」に改名され、議会の地区構成も、入谷4・歌津5人・戸倉5人、そして志津川の2人となった。議会議長はここ7年で、戸倉地区から3人の選出となり、首長との繋がりが深いと聴く。
志津川地区が町の中心だったものの、町の政治・復興の政策に反町長だった人たちが、次々に町を離れている気がする。町の観光・商工の推進事業の中核を担う首長の仲間が、活気を復興特需により拡大しつつある。

まあイイ!
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Author:千葉のぶたか

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