「友だち作戦」はアメリカ軍が大震災で南三陸町などの被災地救助にとった救援活動名です。全世界、全国からの支援により、南三陸町は復旧復興への道を歩んでいます。南三陸町のみなさんは全てが友達であり一体となり、喜び、苦しみ、悲しみを共有しながら、共に南三陸町で今後も生活して行きたいと思っています。

町民のための議員としての原点はここから

2009年10月の選挙

2013年10月27日町議選挙
286票 次点(18人中17人目)

合併10年の検証(3) 教育の現実⑨


現状況を震災2年目ごろからの急激な人口減少の対策を取らなかった事で、今の現実がある。2世帯3世帯の家族を町に留める努力と、こうした世帯への手厚い生活再建支援が人口減少の歯止めとなり、学校の生徒数の確保で、充実した教育環境の整備と好きな部活に入る事で、優秀な人材が育成される。商工観光や高齢者世帯の支援は二の次でも良かった気がし、高齢者も子供たちの笑顔の多い町を望んでいるだろう。
中学校と高校の被災地の復興の模様し物への参加は、果たして必要な物かと頭を傾げる。子ども達に町の復興の被災地支援と考えや進めるのは、大人の考えのメディア戦略のアピールだったり、子供達が売り場に居る事で、家族も応援に買い物に来てくれると言う考え・打算が強く見られる。子ども達の小学6年間と、中学校での部活と学習など新しい分野の活動は多くの事を身に付けさせる。高校では社会人・大学生の進む窓口として、地元の学校生活の集大成と考えた中で、子供達の成長を妨げてしまっていると思う。
現在、気仙沼市・登米市への南三陸町からの進学があり、彼らは高校生活でスポーツと学問のみに集中ができる。中高の活動は生徒会の中で、学校内の活動に留める事をした方が良いと考える。町の生徒・児童の学力の低下を懸念する。
(つづく)
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合併10年の検証(3) 教育の現実⑧

商店再開と観光振興と第一次産業の水産の相乗効果で、被災地観光による交流人口の増加は、行政としても震災からの復旧復興に欠かせないものながら、若い世代の流出と子供たちの減少は、誘致企業の労働力としての確保ができなく、総ての産業の担い手確保に繋がらない。将来の町再生には絶対的に必要な部分として、行政運営の再建の見誤りがここにある。
人口13500人の震災5年後の最低値からの徐々に人口増の想定も、叶わない物となりそうだ。現在までの被災地「南三陸町」へは、支援ボランティアの移住や町の再建の為に町に移り住む人も多い中で、自然減の死亡と出生率の低下により、少しずつ人々は姿を消している。そんな状況からの脱出はもう遅いがある。
南三陸町の教育委員会は13年目を迎える中高一貫教育を、復興の担い手となる人材育成として、連携を小学校まで拡大しようとしている。ここには町当局の厳しい将来への町の状況が伺える。
被災地「閖上地区」でも中学校が被災し、地区の人口減少の中で小中一貫教育への取り組みをテレビ報道が伝えていた。一番必要なのは町民への「町を愛する意識改革」と「地域を守る連帯感」であり、行政の住民流出阻止の施策にある。
(つづく)

合併10年の検証(3) 教育の現実⑦


こうした住民行動に対する行政の阻止への取り組みが無かった事にも、子ども達の数の減少が大きく影響している。
入谷地区は大きな震災の被害を受けなかったこの場所への行政の政策で、一時的な被災住民の移転移築を考えられなかったのかと今となって思う。その提案を入谷地区出身の議員さんに相談したが、良い返事は得られなかった。また、議会でも町長に入谷地区への大規模仮設設置の提案も、希望者が少ないと案は断られた。
被災後に「コンパクトシティー構想」を実現させ、志津川市街地が一か所に集約し、現在の役場・病院のある場所に、住民の意向もあるだろうが、将来の町の形成や担い手の確保など、町の存続を見据えた、大震災後の町づくりを描いた構想を実施すれば、こんなにも多くの人口流出へとは繋がらなかった気がする。
真新しい入谷小学校の校舎利用と、「被災現状を見るのがいやだ」との児童生徒の思いがある事で、出来るだけ被災地の中心部を通らないで中学と高校への通学はできた。早期の生活環境の維持で、現人口減少の半分ぐらいと生徒の減少の歯止めとなったと思う。
(つづく)


生徒数の減少は中学校だけを取っても、合併前の平成17年度は約250人だったのに対して本年度は140人と、10年間で4割の減少になった。志津川高校の定員も160人から大きく下回る100名弱の生徒減となり、来年度は4クラスから1クラス減らしての学生募集が発表された。
原因は子供の生活は被災地「南三陸町」できない。何時になったら生活の安定の為の住宅再建ができるのか、予想も付かなく住宅再建を待ちきれない。こうした子育て家庭の苦渋の決断が子供たちを含めた、若者世代の流出に繋がった。
町の調査の年代別の人口減によると、20代と60代が多く流出し、10代も1割程がその中にあり、2世代3世代の家族世帯が、早期の生活再建と孫の為にもと、資金的に苦しいながらも、子供たちの事を考えた近隣市への移転を家族で決めている。
(つづく)

合併10年の検証(3) 教育の現実⑥


震災後に子供たちの姿を目にする事がなくなった。それは住民の高台移転が未だに完了してなく、「通学バス」での登下校が続いているからだ。住民再建も主要となる、志津川3地区と戸倉団地、そして歌津地区の歌中裏と枡沢団地の2団地が来年3月引き渡し予定で、その後の住宅再建には2年前後までかかりそうだ。学区としての地域再生はまだ時間を必要としている。
被災後の平成23年3月11日以降は、子供を持つ世代は「子供教育の為」といち早く町外への移転を決めた。発生から4年7か月の現状況の中で、人口の減少が今も続いている。4年間での転出は「2949人」を数える。
中高一貫教育から8年後に東日本大震災が発生し、戸倉小学校が全壊し一時的に登米市の善王寺小学校の廃校校舎に移転し、戸小の学校教育が始まり、一年後には志津川小学校に間借りして、南三陸町内での学校生活がスタートした。そして今年の2学期から戸倉団地に先行して、戸倉小学校が再建され学校が始まったが、全校生徒数は69人と大きく減少してしまった。20代と30代の子育て世代が近隣市への転出への動きを見せていた。
(つづく)

合併10年の検証(3) 教育の現実⑤


南三陸町教育長は言う。地域連携型中高一貫教育の志津川高校は、連携しやすい環境のあり、比較的に多くの生徒が進学している・これも合併の効果の現れと言う。導入した15年度は志津川・歌津地区からの入学率は「55.5%」で、10年後の25年度は「67.5」となり、上昇したのは合併による垣根が取れた為と話す。
15年度の志津川・歌津の合併時の生徒の地元入学率には驚いた。こんなにも少なかったのかと感じる。当時から気仙沼を初めとした仙台圏域に、両町から進学していた事が解る。私の仲間の子供達も歌津地区・戸倉地区は気仙沼高校が多かった。しっかりとした目標を持ち、生徒や両親はそれに合った学校を選択する。気仙沼高校の進学は国立大や多くの有名校へ行く。しかし、志津川高校も東北大は勿論、国立大学への選択も多かった。私が志津川中学校から高校への進学は、とりあえず地元の高校があり、同級生には中学から漁船員・大工・就職などがまだ多かった時代、高校も私は頭の悪い割には進学クラスの2・3年を「4組」を選択し、級友の6割ぐらいは大学に進み、残りは公務員や農協・漁協の組合職員として安定した職に就いた。教員も指折り数え15名はいるだろうか。志津川高校の卒業生も1万人を超えた。25年の志津川・歌津の中学校からの進学率が増加しているのは、単に大震災の為で中高連携の為ではない。
南三陸町の被災住民とそれでない住民は、気仙沼や石巻に通学するにも現在は「BRT」でのバス通学しかない。仕方なく地元の高校への選択がある。気仙沼線がない今、倍の時間を掛けての生徒の通学は苦痛ばかりで、家族も大きな心配と負担がある。こうした被災地の状況も把握し、町の子供達への教育環境の整備と支援が求められる。現在高校までの医療費窓口負担が「無料」となった。これも被災地への交付金であり、行政と住民が「お仲間」だけの教育体制では、多くの問題への解決にはならない気がする。
(つづく)

合併10年の検証(3) 教育の現実④


過保護は最後には「可哀そうな子供」になる。学校生活では社会に出る為の人間関係の基礎育成と思う。ずる賢い子供はそのままで大人になる。自分の事しか考えない若者が増えた時期は「ゆとり教育時代」と言われているが、子供の成長の大部分の基礎は家庭教育で形成され、問題発生の原因はここに起因し、社会人となれない普通の就職もできない子供達が多くなり、多くの若者事件もこんな家庭の子供に見られる。
我が町は「母子家庭」が多い。総てでこうした家庭が悪いとは言わないが、こないだのデータで25組が結婚し10組が離婚した。南三陸町特有の状態と思うし、震災のせいもあるが余りにも多い離婚者だ。我慢できない若者と制度で助ける今の国の制度にも一理ありそうだ。「我慢する事を」「勉強する事を」、クラブや友だちとの付き合いで、子供達は自然と学習ができる。それが出来ない現社会ゆえに学校・教育委員会の教育環境への介入がある。異常気象と同じに人間の心もおかしくなっているようだ。
(つづく}

合併10年の検証(3) 教育の現実③


生徒間の精神的な苦痛を伴う事故や怪我など、教師が体を盾にして「いじめ対策」に取り組んだ事も知っている。教師・顧問の多忙から部活動の見回りを欠く事も現在は多い。私の知る指導者は学年主任で在りながら、欠かさず部活の指導を見て、地域の協力者を活用し指導者を呼び入れ、学校長に直談判してコーチとして迎えた。この部活では一生懸命に練習に取り組む姿が見られ、生徒達も優秀な子供が沢山いた。今、地元にかえり家督として町の事業所に就職している。暴力・いじめは無くならないが、未然に防ぎ進む道を教員が導いてやることが必要だ。学校に生徒を任せ管理職の適切な教師指導で生徒は安心し学習・学校生活ができる。「モンスターペアレント」は、学校の今の在り方にも問題がありそうだ。町の学校として一緒に地域と育てる事と、誤った子供への家庭教育を、先生と周囲の親たちが、「違うよ」「間違っているよ」と指摘する事と、改善策を皆で考える事が必要だ。問題があるのは「我が子を大事に思う」、過剰な子供への依存がある。私などは、学校に行事などを含めても、親が来るのは年に1・2回ぐらいだった。学校行事の中で、学校の節目の入学・卒業だけで良いと思う。だけど周囲に迷惑もかけない、学校でも静かで普通に育つ事ができた。
(つづく)

合併10年の検証(3) 教育の現実②


宮城県で初めての「地域連携型中高一貫教育」は、地域の学力向上は元より地域の将来への担い手育成にあった。歌津・志津川の地域の垣根を越えた連携で、中学3年間と高校3年間の6年間で、英語と数学の相互乗り入れによる授業で、学力の向上を図り「夢実現リスト」の作成で、情報を共有し生徒を見守ると言う。さらに学校行事や生徒会、部活などの相互連携による学力やスポーツなどの練習意欲の向上などに繋げた。
私の知る限り「うちの子は勉強をしない」と親が良く言い、「いじめられている」など負の部分も、連携での状況を把握し就職支援やいじめ根絶などをして行くべきと思う。私の知る数名の親子が「いじめ問題に苦しみ」、スポーツを通した相互の練習場所の交流で、互いの話し・意見を述べ合い指導者の助言で、いじめの減退へ向かったケースを知っている。
(つづく)

合併10年の検証(3) 教育の現実①


合併10年の検証 教育(3)
中高一貫教育の実施は15年度ごろからだろう。当時の校長先生は地域の声に耳を傾け、一貫教育への地元の塾の先生の疑問に対し対話の場を作ってくれた。地元の中高の学校間の交流は、生徒の学力向上とスポーツなどの強化策として成果となった。
しかし、中高の教育環境整備により地元の中学校の高校進学にあたり、学力が伴わなくても入学が出来ると言う勘違いが、PTAの父母の中で生まれていた。生徒が沢山いた昭和46年頃は志津川高校で4クラス45人前後の学年編成で、200人弱が志津川高校に入学した。本吉郡域の当時の中学校入学は、志津川・戸倉・入谷・歌津など平均した入学生だった。当時の競争率は覚えていないが、私の同級生を含めても60人前後は不合格となった。一部の仲間は将来を考え仙台圏の私立中学・高校へと進んだが、20年前後からは優秀と言われる生徒は「気仙沼高校入学」を選択し、地元の高校に残らない生徒が多いように思う。
(つづく)

合併10年の検証(2) 南三陸町の効果 ⑦


両町民は均衡のある基盤整備を求め、不公平を払拭する行政の努力が必要と言う。志津川には行政が整備する「慰霊・追悼の祈念公園」の整備があるが、私の知る限り町での歌津地区への慰霊の場の創造は無く、殉職職員の家族がいち早く、伊里前市街地を望む高台に慰霊碑を建立し、休める東屋や観音様も世界的建築家の安藤氏による「慰霊の丘」を整備した。行政に町長への不信感は日に日に高まり、その修復は行政の真摯な対応しか解決の方法はない。太古の遺跡・化石の町の歌津地区、「魚竜館」の流出によるギョリュウ化石の一次保存も、町の提案する内陸の入谷地区に整備すると言う提案に、更なる行政と町長に対する不信感が増し、何で発掘した歌津地区への保存に努力しないのか? その結果新たな火種を議会に作ってしまった。対立を擁護するかのような町の提案・政策に、志津川地区の私でも「何かが違う」との思いばかりだ。
歌津地区民の強固な郷土愛は更なる町の分裂を生んでいるのに、町長の取り組み自体に問題がある。吸収合併は気仙沼との声も聴かれ、人口の減少は25年後に8千人を切る、その方向性も現実身を帯びてくる。
原点は合併時に決め事だった。「町の中央に新庁舎建設」をであり、合併後の町長選挙で当選した現職が実行しなかった事を、私は再度責任があると言いたい。
(終わり)

合併10年の検証(2) 南三陸町の効果 ⑥


二つの地区の市街地再建に格差
歌津地区は「都市計画区域外」で、当初は財源となる国県の復興事業が無かった。それでも地区民は「志津川ばかり」とスピードの差に、「合併後歌津地区にはなかなか光があたらない」との声が聴かれる。不公平感を強くし「合併が原因」と言う人もいる。
(つづく)

合併10年の検証(2) 南三陸町の効果 ⑤


完成は新聞には28年12月とあるが、歌津地区は未だに土地の嵩上げが5mと言われているのに、やっと先月あたりから嵩上げが始まった。志津川は10mの嵩上げは出来ているが、電気・水道・側溝などの外構はこれからで、予定通り完成するかと言うと厳しい。市街地の道路整備は国道45号のう回路が完成したので、商店街が整備されても観光客の為の通路は大丈夫のようだ。
志津川の「さんさん商店街」の中小基盤機構の制度活用も5年間と、終了時を目標に市街地整備が、志津川市街地の3地区の高台移転の造成よりも、最初に整備を進める町事業も住民感情からも疑問を持つ人も多い。そんな中で町民の期待も大きいと新聞は伝える。
今月末にも造成を完了し、「町民巡回バス」「BRT停留所」などターミナルの整備をする。慰霊や鎮魂の場は八幡川の西岸への整備など「復興祈念公園」があり、隈研吾氏のグランドデザインに基づき進められている。市街地構成の姿は「漁村の雰囲気の町並」を生かすまちづくりが始まった。
現在の伊里前地区の整備は、嵩上げの補助も無いままで国道と防潮堤の整備もまだで、歌津商店の核となるテナント店主も、店の再建よりも住宅再建を優先に考える。町の真ん中の伊里前にあった唯一の銀行「仙台銀行」も以前の場所の出店を諦め、比較的に高台移転の進む枡沢地区への新設を2か月前に決めた。時間的に待てないと地区民は「ため息」をついている。
(つづく)

合併10年の検証(2) 南三陸町の効果 ④


全国の自治体が観光客の受け入れに力を注ぐ中で、南三陸町の町の疲弊は厳しく、日本の景気と世界の観光客の流れがあり、北陸新幹線と北海道新幹線の開通の効力で、人の流れを南三陸町に導くのは厳しい。新しい市街地づくりと三陸道の延伸や被災した町・防災庁舎だけで人が呼べるとは私は思わない。三陸道はストロー現象となり通過する観光客も多い。一番の問題点は宿泊施設の少ない事にある。大きな受け皿は「南三陸ホテル観洋」だけで、宿泊観光客の9割以上を占めている。新たな地元の若いホテル起業家の出現なしに、町の経済効果とはならない気がし、地元の水産・商工会社での共同ホテル経営を考えるべきと思う。今までにない新しい雇用と税収確保に町は取り組むべきと思う。「まちづくり会社未来」のような第3セクターによる、観光事業拡大の為の政策を立て、規模は身の丈にあったものとし、観光客為にも「宿泊料金」「静かにくつろぐ」など選択の自由を与える事も、観光の町として来客サービスを当然の事業と考える。
(つづく)

合併10年の検証(2) 南三陸町の効果 ③  


全国の自治体が観光客の受け入れに力を注ぐ中で、南三陸町の町の疲弊は厳しく、日本の景気と世界の観光客の流れがあり、北陸新幹線と北海道新幹線の開通の効力で、人の流れを南三陸町に導くのは厳しい。新しい市街地づくりと三陸道の延伸や被災した町・防災庁舎だけで人が呼べるとは私は思わない。三陸道はストロー現象となり通過する観光客も多い。一番の問題点は宿泊施設の少ない事にある。大きな受け皿は「南三陸ホテル観洋」だけで、宿泊観光客の9割以上を占めている。新たな地元の若いホテル起業家の出現なしに、町の経済効果とはならない気がし、地元の水産・商工会社での共同ホテル経営を考えるべきと思う。今までにない新しい雇用と税収確保に町は取り組むべきと思う。「まちづくり会社未来」のような第3セクターによる、観光事業拡大の為の政策を立て、規模は身の丈にあったものとし、観光客為にも「宿泊料金」「静かにくつろぐ」など選択の自由を与える事も、観光の町として来客サービスを当然の事業と考える。
(つづく)

合併10年の検証(2) 南三陸町の効果 ②  


南三陸町をさらに広めたのが「南三陸キラキラ丼」と言う。女将の考案したものとも聞くが、平成20年の大型観光キャンペーン「仙台・宮城DC(ディスティネーション・キャンペーン)」があり、同ホテルや町内の飲食店が協力して、ウニや鮭・イクラなどの海の食材を、志津川と歌津地区の飲食店が一体となり町の名物となった。こうしたDCと名物丼の効果で、交流人口は震災前100万人前後であった。農家・漁業の民宿と新たな取り組みで観光地としての受け皿が拡大していた時の大震災だった。
震災の年で23年には約35万人と減少したが、24年には約89万人まで回復した。しかし、昨年の26年は約76万人と11万人の減少となった。「震災の風化による減少」と分析するが、震災復興が進みボランティアの減少や、町の再建事業が終わるあと5年後には更なる観光客の減少を予想する。ハードやソフト面の受け皿の整備と言うが、人口の流出や働く場のない町に交流人口と言う名の元に、観光客を呼べるかと言うと私は難しい気がする。
(つづく)

合併10年の検証(2) 南三陸町の効果 


合併し町名が「南三陸町」と変わった。南三陸ホテル観洋の女将は言う。観光振興に特に力を注ぎ、観光人口の拡大を図っている中で、旧町名「志津川」は川を連想させ、「南」と「三陸」を町名に入れた事で、明るく海のまちを連想イメージへと定着した。
私は志津川に恵みをもたらす川は大小はあるものの、約7つの志津川地区の流れる川沿いに集落が形成され、災害時の排水と海の恵みをもたらす、志津川の「川」の意味を大事に考えたい。逆に町名が「何で南三陸町なの?」との思いが募る。歌津地区との合併は双方の町名を選択するには、町民・議会も納得は得られない。しかし、志津川は入谷・戸倉村との合併でも「志津川町」を貫いた。その先人の選択の意味を感がえても、「継承」の観念からも志津川町で私は良いと考えている。
「西の明石・東の志津川の真ダコ」は、知る人ぞ知る言葉だ。タコをこれまで観光食材の目玉として、「おすばでまつり」で近隣市町から多くの来客を迎えた。「志津川キラキラ丼」でも観光振興には繋がった気がしてならない。町のネイミングがそれほど大きな効果を生んだかは、関係者の努力でしかない。
(つづく)

合併10年に検証(1)⑤


合併による新庁舎建設をしなかった事が大人災に繋がった
町は造成コストと利便性を考慮し場所を決定したと言う。住民の危険性の回避と不安の払拭が当然の決定場所ながら、新庁舎の建設も財政面からの、八幡川の近い海抜1m余りの場所に、役場を置き防災対策室を同じ場所にそのままにした事が、多くの人命と町の財産を、そして国からの国民の血税を無駄にした反省がどこにもなく、震災検証の大切さを未だに実施していない事に腹が立つ。
歌津総合支所には「地域生活課」と「町民福祉課」の2課しかなく、職員の9人には驚く。平気で地域格差を町が実施し作っている。震災前は「総務管理」と「産業建設」を含め、4課30名の職員が常勤していた。歌津地区民は「住民の声が届きにくい」と話す。それに対し「権限の分散は二重行政と繋がる」と町幹部が話す。被災を理由に行政の町長のしたいような体制づくりが続けられているようだ。これまでの体制に小さくでも良いから「総務」「産業建設」を設ける事はそんなに難しい事なのかと思う。
平成の合併は国の財政削減策の一つで、合併による10年間の「合併特例債」の活用で公共施設や住民の環境整備をする。長期的な国費の削減には、議員定数の削減と職員の削減や、事務処理の効率化などを上げている。しかし、歌津地区民は実質的に役場が遠くなったと感じている。
合併10年となり改めて合併の意義が、本庁と支所の格差になり、互いの溝が益々深くなっているようだ、行政トップの資質と「議員・職員の町民の公僕精神」を、もう一度考え真摯に業務にあたり、決して町民に不公平や格差が生まれないよう、東日本大震災の復興の拠点の町「南三陸町」の再建に、行政と町民が一体となり取り組んでいかないと町が無くなる。
(終わり)

合併10年に検証(1)④


現在の仮設の病院と庁舎の建設形態にも議会で大議論となった。問題に上がったのは「患者が役場事務などの人の出入りが多く、安心して診察に望めない」「病院と役場に空間をつけるべき」など、最後まで議会と行政の意見が分かれ、私と入谷の鈴木議員の反対で、歌津出身の議員も共に、行政が妥協しての現在の形となった。新しい議員の与野党の構図は、町長側が優位となる現状の中で、今回の歌津総合庁舎の多数決での場所決定だったのだろう。歌津地区民の要望が汲み取られない議会の体制を不思議に私は思う。町が議会に提案する議案はことごとく通る、歌津地区民の鬱憤は増すばかりである。民意に対して議員がどう判断するかは、議員一人ひとりが真剣に考え、行政の監視役としての機会であり、間違いを正す議会制民主主義が、国会と同じようにトップの力に、住民の考えよりも、自己の保身の行動が世間の民意である事のような決定がある。無関心社会と世襲と自分の考えよりも地域の政治家の願いに従う。こんな投票行動が日本の政治を駄目にしている。
(つづく)

誰が見ても地区の復興格差がある 原因は誰に


平成の森内に歌津総合支所の建設にも歌津地区民の不満がある。公民館と保険センターの併設も同じ場所となり、29年4月に完成となる。商工団地内の新病院の隣りに本庁舎が29年10月に供用開始となる。
平成の森への総合支所建設は、今回の大震災で高台の避難所なから45号線の津波瓦礫の為に、物資の到着が遅れた経緯があった。歌津地区民が希望するのは、「歌津中学校裏」と「枡沢団地」の周辺など4カ所を希望していた。町との検討会で理由に上げたのは、1.安全な所2.国道45号線に近い3.災害時に広報支援が受けられる・・・などを上げた。それなのに「平成の森」の最終的な決定は疑問がある。
(つづく)

検証1(新庁舎問題)②


串本への議会総務委員会調査があり、津波の発生が想定される中で、串本町は「消防署」「町民住居」の移転が実施され整備されていた。
志津川・歌津両町議会の合意を現町長が高台への新庁舎建設を実現していたら、南三陸町の人的被害は軽減され、震災下での行政活動も混乱とならなかった。済んだ事と片付けるのではなく、当時の町の行政運営の体質が、これまでの津波被害に対し、本気で取り組む姿勢に大きく欠けていた。
町の合併の執行部の中心だった当時旧志津川町総務課長の遠藤健治氏は、「着工」は「検討」と言う事だと言う。町民誰しもは新庁舎が建設されるものと思っていただろう。その後で副町長となり、現町長とのしがらみの中で「双方に認識の違いがあった」との、振り返る言葉に現町長への擁護としか思えない。
これまでも町政の中で「意見公募」でも14%の住民の回答に、6割の住民の「県有化賛成」を民意と、自分の都合の良い解釈や、戸倉の土地取得の経緯と産業廃棄物の県への処理委託など、「臭いものにふた」をした政策行動は、町民の為と言い自己保身としか私は取れない。今後も自分勝手な言い分は町に多くの損害を与える。
もし、商工団地付近に本庁舎建設となっていれば、今進む志津川地区の高台移転の状況と同じで、新庁舎の周りには商店が出き、住民も新たに高台への津波対策と家を建て、自然の成り行きは自然人口減だけで済んだかもしれない。合併の最大の「新庁舎建設」を怠った事が、今の現状を生んだと言っても過言ではない。
(つづく)
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Author:千葉のぶたか

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