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 「友だち作戦」はアメリカ軍が大震災で南三陸町などの被災地救助にとった救援活動名です。全世界、全国からの支援により、南三陸町は復旧復興への道を歩んでいます。南三陸町のみなさんは全てが友達であり一体となり、喜び、苦しみ、悲しみを共有しながら、共に南三陸町で今後も生活して行きたいと思っています。

町民のための議員としての原点はここから

2009年10月の選挙

2013年10月27日町議選挙
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今日の最大の用件は、歌津に「慰霊碑」が建立された事に参加する事です。歌津駅の裏山に建てられた「鎮魂の丘(森)」に取材に行き、そこには100名を超えた町民が居て、メディアの取材・カメラも沢山いた。地元の西光寺と津龍院の方丈様3名による、入魂式が厳かに執り行われた。
歌津市街地と歌津湾を見下ろす、山の木材が伐採された跡が未だに残る場所に、建築家「安藤氏デザイン」の、慰霊碑・鎮魂の丘・花を植える整備をして、皆さんが誰でも手を合わせられる場所を造った。旧歌津町の津波による殉職の人の数だけ、桜の苗を植えたと言う。その数「15本」でこれから毎年「桜の花」で、慰霊の丘を彩って行くと言う。
歌津地区の亡くなった家族の事を後世に刻み、119の名前が今後も語り継がれれば良いと話す。
議会の「小野」さん「小野寺」さん、そして若い町職員の「井上」君「三浦」さんの名前に、当時を思い悲しみを新たにする。他にも知る人たちも多くあった。
お母さんが近寄ってきて、娘の夫と子供、嫁いだご両親の四人を無くし、娘はこの町ではいやだと町を離れて暮らす。町長の事在る毎の態度に「一喜一憂」し、その態度と考え方に激怒する。
私もこの「憎しみが優しさに」変われそうもない、多くの時間を要しても無理で、この町を離れる時が「どうでも良い」と思えるのかと考える。
旧志津川町民の慰霊の場は、祈念公園が整備された時と思う。慰霊碑建立の前に、高齢の両親は手を合わせる鎮魂の思いを表す場所もない。歌津への慰霊の丘へと言いたいが、正面からは足場が悪いが、裏から車でも行ける。役場の職員を一人だけ見た。町長も議員も歌津だけで、他の人たちは誰も見かけなかった。町内に遺恨を残す行政の態度と行動は私には理解できない。
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南三陸町の春をどうぞ


志津川地区の十日町・大森地区からの、津波避難指定場所が「東山公園」です。しかし、今回の大津波はこの高台まで津波かせ押し寄せ、眼下の住宅と多くの人間が津波で流され、街は消え、人々も一人また一人と町を去って行ってる現状にあります。
2011・3.11から欠かさず、東山の桜を撮り続けています。震災前の鳥「モズ」の食害で、山の桜の花びらも大分減った気がします。
被災した桜の伐採から山の整備は、勝公園芸さんが、ボランティアと共に手入れをしてくれました。この春も小さな苗木が眩いばかりの大きな花を付けました。
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登り坂には水仙が満開でした。私のマイカーは震災から活躍し、車はボロボロです。タイヤもクギなどで3回パンクし、車もキズだらけで塗装の整備が必要で、塗装板金費用は20万円掛かると言われました。そんな余裕もなく当分はそのままにしようと思っています。
花では生活の足しにはなりませんが、心の癒しには絶対必要と思います。連休は美味しい南三陸の海産品と自然美をご堪能下さい。私が時間があれば案内しますけど!


商店の新たな若者経営者支援


袖浜の10軒以上あった民宿は、5年目を迎え再建したのが2軒と、観光客の受け入れ体制は、地元関係では農家・漁業民宿を入れても、志津川地区に来る大型バス満席の客を宿泊させる施設はない。1千人余りの宿泊のホテルが志津川に一軒あるだけだ。
震災直後JR東日本のホテル建設と、民宿を一緒に建て貸し出す話も、いつの間にか無くなったようだ。大手のホテルは南三陸町の観光客の将来像を描き、集客の可能性と維持を分析し、ホテル建設へと歩を進める。石巻市・気仙沼市・登米市には相次いで、「ホテルルートイン」が去年以前に被災後建設された。しかし、町には参入と言う形のホテルはない。
こうした市場調査をしたうえでの町づくり計画かと言うと、被災流失した施設の復旧の交付金活用がありきで、多くの箱物を同等の規模で町は再建している。
町が想定する5年後の人口「13500人」を元にと言うなら、間違いなく五年後はこの数字になる。しかし、その後の人口増と言いながら、人口動向では10年後に1万人割れを、国の調査予測はしていた。
先を見通す想定の甘さばかり随所に発生する。町づくりの想定外に驚く。
JA南三陸が志津川福祉の里(旧志津川中学校)に7月のオープンを予定する。本所と志津川営業所の併設ながら、規模は以前より小さい。農協収入は保険・貸出・ローンなどが大部分とも聴く。
身の丈を堅実に見極め、収入の税収に応じた同等の町と言う会社の、経営をしないといけない。

健康あっての生活


12月の眼の手術・入院の10日間に、自分の会社経営の終了を体感し、生活の見直しを考えた。
網膜剥離手術と手術の経過により左目失明、右目の視力回復の遅れ、さすがに将来展望を見据えての自分の会社経営は、もう終わりと感じた瞬間があった。
3か月にも及ぶ自動車運転の自粛は、廃業思考への主眼となる問題にあった。剣道の子供達への指導も夜の運転ができない状況下で、剣道スポ少の休団を模索した。
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現在は東北大学の先生による2回目の手術により、右目が「0.9」と手術した左が「0.3」まで回復し、視野の拡大と目の瞳孔の開閉も順調に改善に向かっている。普段の生活と新聞の記事の確認など、被災後の1年目の状態に戻った。
血糖値も落ち着き、ヘモグムも「7.9」と低下し、腎臓への影響の尿タンパクも「+」と正常値に近づいた。
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健康な身体があり仕事ができる喜びの中にいる。行政の体質も健全な体制があり、順調な町づくりが出来ると思っている。「健全な身体は健全な肉体に宿る」と言われ、行政の悪の体質改善なしに早期の街造りはできない。
大衡村の村長・村議選挙が昨日告示となった。議員も14人の定員に15人が立候補したが、新人が1人に留まったと言う。地方議会の現状は、政治への参入を周囲に声掛けしても、「支援はできない」と答えが帰って来る。立候補も自己の「行政改革」を訴え、出馬し住民の支持を集めるしかない。村長選には前議員の女性が「セクハラ防止」を訴え、前議長が「誰もが村長に物言える政治」を訴え選挙戦に臨む。
健康があって初めて議員・首長の仕事ができる。自己の「打算」「禁欲」で政治への介入は、住民にとって何のプラスにもならない。
今回の病気は「生活習慣病」として、長い間の自己管理ができなかった自分の性格に起因する。
昨日は歯医者に歯の欠けた治療に行き、帰りお昼ご飯を食べる前に逆の歯が取れた。一日に2本の歯を治療できた。先生に感謝です。

被災地「南三陸町」のアパート情報


南三陸町にアパートが全て埋まり、ない事を知り、その場所を登米市に確保していると言う。
被災地に止む無く生活しないといけない人達は、派遣職員・建設会社社員・教員など、その住いの確保に苦しんでいる。戸倉荒町・林・沼田・旭ヶ丘など、10軒くらいは町にアパートは建っているが、総てが埋まっている。みなし仮設として沼田にもアパートがあり?被災者は暮らす。
沼田の入口の交差点の信用金庫の隣りも造成が始まった。誰が何を立てるかはまだ分からない。
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運送屋さんから海苔屋さんへの道路がある。その通りの奥にも知らない内に家が建っていた。町の造成を待てない人たちが住宅再建に動いているのだろう。
私の知人に不動産屋がいる。「アパートないの?」の問いに、「あるわけないよ、今言っても」と言う。アパートが建築になると直ぐに住人が決まっていると言う話だ。
私に以前、商工団地の土地にアパートを建てる計画はないのか? と聞かれた。今なら土地は高値で売れると2・3年前に話していた。この時から、被災地「南三陸町」のアパートの厳しい事情が始まっていた。知っている人たちはいち早く行動に移していた。しかし、良い所あと3年か5年と言っていた。町はいったいどうなっているのだろう。

いま、何をしないといけないのか


東山の下から天王前・天王山・新井田を望む。志津川の中央団地がこの先にできる。造成地・三陸道の残土を被災地に持って来て、嵩上げかと思いきや、また削り取り別な場所を持って行く、こうした事が幾度となく、被災地「南三陸町」で繰り替えされている。
今日、私と意を同じくする方が、「町の復興計画に意義あり」と言う。南三陸町の人口流出に行政職員・町長自らこの町に留まるよう働きかける事こそ今必要だ。町を出る方の情報は多かれ少なかれ町にはある。その情報を検収しながら、人口流出歯止めにトップ自ら動く事で、ひとりでも町に残る人ができる事こそ、今やらなければいけないと、意見の一致を見る。
志津川地区の3地区も40区画前後の、土地希望者が町の土地を必要としなくなっている。今日配布の「復興町づくりニュース」に町内11カ所の防集の土地が、56区画の入居者予定の土地が残っているので、募集している。
今年掲げた町の最大の課題として「人口流失阻止」があるが、政策をしていると言っても、結果が何処にも出ていない気がする。登米市への住民の移動は今後も進みそうだ。私の知人も現在町内に土地を造成し、3~4か月ぐらいで家が建てられると言う。志津川地区の三地区の高台の造成は、どう考えても今年・来年度と遅く、病院・役場の建設以上に早期造成をしないと、まだまだ流出は続く。
役場職員の登米市などへの住宅建設もあるので、住民の流出を行政は何も言えないだろう。この町で生きると言う人の為にも、行政の人口増加策に期待するしかないのか。安心して欲しい私は70歳のローンの完済までは、志津川を離れる訳にはいかない。

パブリックコメント


「5件か10件ぐらいと思っていた。町民の関心が高いと裏づけられた。」と、町長は定例記者会見で話していたと言う。
全世帯への住民の意見書を聞くために、封書配布が5400世帯に配るとしたら、いくら予算が掛かるのか? 5件や10件を想定した回収率に、誰の為の住民の意見の収集なのか。必要性を含め町で検討を重ねての、「パブリックコメント」なのか。
村井知事の指導と予算提供を得ての、住民からの意見をまとめたのか。最低でも送る資料や発送の人件費があり、ヘソそろばんでも「数百万円」は掛かるだろう。5件10件の意見の収集を予想する町長の発言に、想定の甘さがまた露呈する事となった。
誰が意見を投書するだろう。その数は500件を数える。真剣に防災庁舎をどうすれば良いのか、自分の考えを綴った意見、真剣に行政も扱って県への報告として貰いたい。
「解体派」「保存派」の意見だけでも、双方から50件以上はあるだろうし、観光の為・商工振興の為などが、多くの商店主や語り部の親戚・家族・友達に、声掛けしての「解体」は無かったのか、提出者を分析して「防災庁舎」を如何にすれば南三陸町の為になるのか。被災職員の家族の思いを、いかにして心を和らげられるか、どっちにするにしても解決しないといけない問題がある。
今まで行政の裏側の動きを見てきた私には、現在の町長の行動と決定には疑惑を抱かずにはいられない。
戸倉団地の瓦礫、土地の町買取、被災地の土地の買い上げとその価格決定、庁舎屋上での写真データ流失、被災義援金の議員への公開などなど、これまでに多くの疑問があり、私は納得する事はいまだにできないでいる。

遅れる事はあっても早まる事のない志津川市街地復興

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津波避難場所指定の東山の桜を見に行って来た。平日はトラックの往来や立ち入り規制があり、近づく事も難しい被災市街地の状況に、桜の開花を待っていられなく出かけた。水仙が花満開ながら桜は5分ぐらいだろうか、花芽が毎年少なくなっている気がする。平時ならこの時期は多くの町民が東山に向かう。日曜なのに3時半に誰もいなかった。
花も見たいが市街地の嵩上げが一番気になる。大森地区と海岸部は、海と陸の境の防潮堤の建設が進むが、低地部の嵩上げも少しずつだが変わってはいるものの、目に見える進捗は判らない。
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十日町から五日町の国道は、道路のアスファルトも撤去され、嵩上げが10mと進むが、ここから市街地の都市整備事業がどうなるかは、皆目見当もつかない。最近の町の報告に28年10月の「町開」が1か月延びて11月と新聞に載っていた。私の土地も換地の減歩約16%で「60坪」余りを用意されるが、何時の事やらとあてにしないで今を暮らしている。陸前高田は被災から8年を要し、商店街の再生へと進んでいる。8年経ったときは年金を貰う年で何ができよう!と言う。私も同じである。
5年半も掛かる市街地整備、住宅地の土地引き渡しの最後も28年12月ごろ、復興はまだまだ先の町の復興計画、もっと早く住宅再建の出来る計画は、本当に無かったのだろうか? 県・町主導の震災からの町づくり計画は、住民生活は後回しのようだ。

光あり望みありそして栄えあれ志津川高校


母校にある「モアイ像」の顔が私は好きだ。たぶん松原公園に整備された、被災したモアイの半分の頭部分と思っている。志高に設置する事は町が蘇る事と一致し、何事にも屈しない精神のモデルとして後輩には受け止めて欲しい。

昨日の入学式でも「南三陸町には志津川高校が存続した」との話があった。本吉郡にはまだ「響高校」と2校があるが、今後の人口減少による生徒数が大きく関わる。気仙沼市も「西高」が今年の入学生を最後に、3年後に気仙沼高校に統合となる。7万余りの市でも学校の再編は今後も続く。

登米市は大きな高校改変の変革期を今年から始めた。布施市長の将来に向けた政治姿勢が、厳しいとの政治決断もある。しかし、早期の災害公営住宅の整備で人口減少を食い止めた。高校の統合は新たに上沼高校に「登米総合産業高」を設立し、米谷工と登米高校そして米山高校を集約した。農業・商業など6学科で535人が在籍する。上沼高など4校の合併で寂しさもあるが、入学し再スタートで母校が今後も残る英断は、在校生にとっては嬉しい事である。登米市から3名の新入生が志高に入学したが、気仙沼線があったら通学に便利と思う。

戸倉小学校が2学期から共用が開始となる。地域に子供たちの声が聞こえる事は良いが、ある子供を持つ親は志津川小学校に合併する事を望んでいた。考えとして多くの児童の中で勉強させたいし、スポ少など多くのスポーツの選択もできると言っていたと聞く。バス通学にも慣れ両親もこんな生活を4年も続け、志津川小での隣接の生活も落ち着きた事も理由にあるだろう。
将来を見据えた子供たちの教育向上は、多くの中での切磋琢磨で、子供も親も知識を高める事が出来ると思う。母校が無くなる寂しさもあるが、新たな環境に子供達を置く事も、被災地の再生の後継者育成には必要と思う。
被災前に戸倉地区での「議会の住民の懇談会」でも、小学校の統合の話があった事を思い出す。

被災地石巻の桜に癒されて


石巻市の日和山に大震災後に初めて出かけた。桜は3分から5分咲ながら、訪れる人はまばらで桜の名所とはなっていない。
イギリスのウイリヤム王子も、この鳥居の前から石巻の被災地を望んだ事を思い出す。世界が日本で発生した大震災大津波の、犠牲になった御霊に手を合わせてくれる。とにかく早く死者への追悼の慰霊碑の建立を願いたい。
石巻の海岸線は何もなく、昔通った家々の面影は何もなく、この姿を見るのに住民の勇気も必要なのかと思う。
桜と鳥居、その下には何も無くなった大地が広がり、その光景を語り部の方か? 説明をしていた。話はしなくてもこの姿で全てが解る気がした。
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石巻日和山は、人口に造った物ではなく昔からあった避難場所である。我が町にも八幡川右岸に「築山」が20mの高さに整備される。いざと言う時の避難場所として、200名が避難できる。以前に計画した1000名の、観光客や商店の人たちが逃げる場所の実現を望むが、町の財源も復興交付金の要望も受け入れられないようだ。防災ビルの構想もまだ我が町にはない。

今も未来も住民は生活は苦しく


気仙沼市の災害公営住宅の一か月の家賃が、住宅の建築費高騰で、政令収入の超過者が「16万円」を超える住人も、南郷住宅の一桁の住人が入居3年以上から出て来るとの記事が、地元紙の見出しにあった。「ウッソー」と思った。
我が町でもこんな額とはならないまでも、最高で以前の説明会で7万8千円だったと記憶す。被災地である事と建設条件は同じ、一時期の減額・優遇が家賃にあっても、将来的には町の財政収入確保の元として、総てで増額となる事は決定している。障害者・生活保護家庭などの優遇があっても、高齢者とて家賃は上がり、住みにくい町になって行く。

懐かしいあの町はどこにも無くなる。復旧復興計画の中で新しい町づくりばかり目立ち、町として南三陸町の志津川・歌津・戸倉の壊滅した地区は、守るべき思い出は二の次ではある。もう何も亡くなっていく。

こども達の心の傷

2011-06-15 08.35.32
「津波のバカヤロウ!」は牡鹿半島の雄勝地区で津波にあった子供の言葉です。
津波により人生が大きく変わった家族のドキュメントを夜中に放送していた。この子供の両親と祖母は津波で亡くなった。今は内陸で祖父と二人暮らしをし、雄勝の海にはあれ以来帰っていない。
親の仕事を継いだ二男の死により、高校教師をしていた長男が、親と弟が海の仕事として選んだ、「銀鮭養殖」の道を弟の為にと生活を一変させた。兄は弟の子供が一番気になっている。甥っ子には雄勝に戻って来てとは、今だに言えなく自分から「帰りたい」と言ってくれるまで、弟の仕事を繋げたいと思っている。希望ながら甥っ子が自分の父の仕事を続けて欲しく、父の頑張って来た「銀鮭養殖」を継いでもらえれば、甥っ子も両親と何処かで繋がるものが出来ると思っている。
この兄の姿に「もらい泣き」をした。家族愛と兄弟愛を感じ、自分に何ができるかと、悩んだ上での決断だったと思う。
津波で生活が一変した人たちを多く知る。何もできない自分がいるが、町の変化を見届ける事も使命と思っている。多くの亡くなられた方々への追悼の気持ちである。
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千葉のぶたか

Author:千葉のぶたか

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