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 「友だち作戦」はアメリカ軍が大震災で南三陸町などの被災地救助にとった救援活動名です。全世界、全国からの支援により、南三陸町は復旧復興への道を歩んでいます。南三陸町のみなさんは全てが友達であり一体となり、喜び、苦しみ、悲しみを共有しながら、共に南三陸町で今後も生活して行きたいと思っています。

町民のための議員としての原点はここから

2009年10月の選挙

2013年10月27日町議選挙
286票 次点(18人中17人目)

3.11の震災に負けない


この未曽有の大震災からの脱出に再建に、気持ちを鼓舞して震災に向かってきた。被災者の声を苦しみを行政と町長に訴え続けてきた。
志津川地区からは36歳の新人が当選し、前回の町長選に落選した元議員が、議員として再出馬し、被災地志津川市街地での少ない票の取り合いとなり、2名オーバーの定員の中で、ふたり共に落選となった。
私の参謀的立場の言葉に「人の悪口は言わないように」と、落選が決定した後で、集まった支持者に話した。
過信と油断と、「最後まで頑張る」事をしなかったのかもしれない。大切な期待の元で結果を出せなかった事に、一票を投じた支援者にお詫びしかない。
今日は選挙の「収支決算書」を提出する。
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選挙分析をしてみてわかる


「町民のみなさんと笑顔の花を咲かせましょう」を選挙の中で掲げ、選挙運動も復興に向け一緒に頑張りましょうと笑顔で訴える。
南三陸町は志津川も歌津も一体で、入谷・戸倉も同じで復興に向かいましょう。と全ての仮設を廻った。しかし、現実は各地区の議員が当選し、4人いた志津川地区の議員は2人と半分になった。
志津川地区は良く言われる。「戸倉・入谷・歌津の出身の人の寄せ集め」と、それは地区から志津川に嫁ぎ、場所を志津川に移し生活している人が数多くいるからだ。
私の支持者はみなし仮設にいて連絡も難しく、投票行動も場所までの移動が大変と聞き、既に町外へ移転してしまっている。及川さん・村上さん・佐藤さん・佐々木さん・三浦さん・須藤さん・鈴木さん・佐藤さん・・・等があり、多くが町から去った。また、亡くなられた方も沢山いる。三浦さん・高橋さん・鈴木さん・昆野さん・渡辺さん・西條さん・堀内さん・・・等、多くの支持者は今町にはいない。
23票差の3倍以上はあるだろう。新人としての得票もあり、前回は「490票」もその中の貴重な指示の結果があった。志津川町民の流失の現実がここにあり、震災で私の支持者の減少が最大の結果であり、この上での「286票」は議員としての活動が認められ、少ない親戚縁者の支援と結果と受け止めている。

自分の甘さに完敗


午後12時前に最終投票数がでた。
結果は次点に終わった。
今までの議会活動の指示が「286票」となった。
これが全てと思っている。
町の町政に悔いなしです。町政へのエネルギーが再加熱するかは厳しい。
「復興計画」の進捗を見届け、多くの民意が今後どう動くかを見つめたい。甘さがあったのは結果からも理解できる。
この「ブログ」を閉じます。

格好悪い泥臭い議員に


5日間の議員選挙期間が終わった。
格好はどうでも自分の考えを貫き通した。「走って」「頭を下げて」、自分の考えを皆さんに聞いてもらった。皆さんが家から出て私を待っていてくれた。そんな幸せな選挙をさせてくれた。後は皆さんの投票結果を待つだけです。

復興の手助けと、行政に早期再建のその提案をさせてください。

議員にさせて欲しいと、5日間の選挙戦だった。
もう一度「南三陸町議会議員」として働かせて下さい。

多くのみなさんの生活が変わった


選挙の今日は最終日となった。5日間の選挙期間、初日は一日が長いと感じていたが、最後の日を迎えると、あっと言う間の時間を思う。亡くなられた志津川地区の支持者あり、この方々に報いる為にも今回の出馬がある。町の再建の一助となる事と、一躍を担いたいと立候補を決めた。
みなし仮設での町外へのご支持してくれる皆さんの、毎日のご苦労と、南三陸町から他の地町での生活の選択もあり、早期の安定した生活を一日も早くと、志津川から去った方も少なくない。当選には厳しい状況を痛感する。
昨日は朝7時に事務所を出て、南方仮設からの選挙の始まりを決めていた。石巻のホテルからの東京の仲間の運転者と待ち合わせ、東京からの剣道の教え子との3人でスタートした。初日の荒町以来の「選挙演説」には、朝から仮設生活者が集まった。48前後の仮設を中心に今回の選挙は廻った。5日間の毎日が雨が日中必ずあり、その中でも傘をさし私に耳を傾けてくれた。本当に感謝感謝です。車イスの方もあり早期住宅建設で帰還を叶えたい。
仮設で暮らす一人暮らしの高齢者も多く、築き上げた生活の平安が、この津波で大きく変わり、涙ぐむ祖母の言葉に、解決策を講じる宿題を貰った。この仮設では被災後7人の方が亡くなった。90戸余りの仮設ながら比率的にもその数の多さを感じる。
今日は終日南三陸町内を全て廻りたい。スタッフの疲れもピークを迎え、体調を壊さないようにと願うばかりです。

ポスターが今町に必要な事の総て


私はポスターに町再建の必要な物を全部盛り込みました。
掲示ポスターに「顔」「名前」を大きく入れる事は容易いのですが、自分の議員としての取組の全てを表現しました。
「千葉のぶたか後援会」のトップの見開きは前回のもので、議員としてのスタートの原点が海を守る事にあり、幼少の頃も生活は市場の前であり、海との触れ合いの多い生活の中で、志津川湾の光景をバックに配しました。剣道も生活の一部として、スポーツ少年団との子供たちのとの触れ合いの中で、大人になり生きて行くための必要な物を剣道の指導の中で解いていきました。教育・友情の維持は苦しいもあり楽しくものです。それが自分の為であり、家族や仲間の為になる事と教えてきました。これは私への戒めでもあります。
南三陸町の海・山・川・人との絆を大切にして「皆さんと」この町で暮らしたい。被災から再建で必要なものに「買い物弱者対策」「雇用の場確保」で、これには大型スーパーが必要で、嘆願書集めで行政に訴えました。「病院医師招聘」は生活習慣病の増加があり、腎臓機能低下による透析患施設の意思が必要な事からです。
復旧の志津川・歌津の2年7か月の移り変わりの光景、復興の問題点としての防災庁舎、そんな中に黄色く空高く伸びる「ひまわり」は、震災からの再建で「町民の皆さんと笑顔の花を咲かせましょう」が、昔の町の再生は賑わいの町民みなさん笑顔が、また生まれる事への願いです。町の移り変わる再建の姿を、仮設で暮らす町民の方々に伝える事で、南三陸への帰還の気持ちを失う事なく、仮設での生活に造成での生活の場確保まで耐えての気持ちです。早期の実現へ議員として何回も一日も早くと訴えてまいります。
「千葉のぶたか・千葉印刷・千葉のぶたか」の選挙活動のフレーズは、私も会社も南三陸町と共に歩みたいがあります。

高台の造成とスーパー建設をだった


南三陸町議会議員選挙の看板の掲示板がやっと埋り決まった。
選挙前は定員オーバーがなく「無競争」から始まり、誰が議員を止めて空きがいくつあるかが囁かれ、事前説明会には一人が多く出席した。その後でニ転三転と出馬の数が変わり、結局18名の候補が出そろった。
入谷地区からの関係を含め、一人辞め5名が立候補し、5区に5人の乱立という構図となった。戸倉地区からは一人の殉職があり、前回の議員数から1人増え5名が立った。歌津地区は一人減り一人が立候補で展開している。
私の志津川地区は二人が勇退し、36歳前後の若者が出馬した。志津川は市街地が2000世帯流失し、仮設とみな師仮設などに多くが町外にも出て、海岸線を含め他に200余りの流失ともなった。全ての地で諸々の状況を抱え、厳しい選挙戦となっている。
選挙の地区廻りはまだ私は7割でしかなく、少し遅れている。登米市を廻ると半日以上も時間を要するが、この地区へは多くの時間を掛けて、人口の流失を防ぎ「住民帰還」へと、積極的に多くの時間を町の再建をと訴えたい。
住民の要望はやはり「高台移転を早く」だった。行政の中のごたごたなど誰も口にしていなかった。「とにかく早く」なのだろう。もう一つの大きな声は「スーパーの早期の建設を」だった。
私がブログで言っている「商工」「観光」などの早期振興は、行政だけの強い方針であり、多くの住民は以前の生活の復帰が希望と強く感じた。
次の町のトップを誰にし、一日も早くの生活の確保と町の再生は、「町づくりを誰に任せるか」の、町民の選挙行動でしかない。働ける・動ける人を、本気で一体となり再建に向かえる人材を町政に送る事にある。
大切な一票は自己の我欲の為でなく、町の再生への力となる方に「大切な清き一票」をお願いしたい。

早く早くが仮設生活者の願い


これが私のスタイルです。
親戚・知人・家族・社員・同級生による選挙で、仕事を持つ環境の中で、一人1日から2日の時間を活動に回してもらっている。
「早くしてけらい」「期待してますから」「ガンバライよ」が多くの言葉で、「早く帰りたい」が仮設の生活者の答えだった。
「歌津に負けないで」と志津川地区の人が言っていた。「南三陸町は一つだから」と、「歌津も志津川もないです。いっしょに町を造っていきましょう。」と話した! これが自然で私の根底の考えです。
可愛い子供たちの出迎えに力付けられる。この子らの為に頑張りたい。そしてこの子たちに未来の南三陸町を託したい。そのための基礎づくりの行政のスタッフを決める選挙でもある。
また、地区の方が亡くなった。以前の選挙から「ガンバライよ」と43歳の年の差で子供に諭すかの如くだった。
これには皆が驚く、10時からの運動の始まりで、戸倉に行く途中、犬を連れ散歩をしていた方が手を振ってくれた、その方が午前11時に議員選挙の立候補の届け出を提出したと言う。以前の活動に町長選の対抗馬として、議員も一期経験し、県会にも出場している。前に先輩と「また出るの」と確認した時があったが。選挙は恐ろしい。

公正な選挙の厳守の中で


選挙の下見に狭い道路に分け入った。
写真は旧志津川小学校の跡地裏にある神社です。何故ここを言うと、津波襲来の時に、町を飲み込み、神社から津波が山沿いに駆け上がった光景が、今もその記憶に鮮明にある。
昨日の選挙カーの検査は、規制に則り公正に厳守し行いますと、警察の検査官が言う。4年前の選挙と同じ車の看板ながら、今年は看板の長さを厳守し、4面が長さ規制により、4隅をカットし申請のクリアができた。他の候補もこの対応に1時半から4時過ぎまで掛かった。
選挙も勿論「買収」なども厳しく取り締まって頂きたい。投票は将来の子供たちの為であり、それを担う町長・議員を選ぶ選挙、候補も真摯に、町民も真剣な選択をお願いしたい。
選挙カーの運転が申請免許が無いとできなくなり、9名の予定者をしていたが、3名だけの準備しかできず、私を含め身近な人を3人お願いし対応した。来客や東京からの応援対応に10時過ぎまで掛かった。昨年もこんなに厳しくは無かった。
選挙の訴えの重点には、町民の減少の流出阻止の「早期土地造成」「早期住宅再建」であり、「雇用の場創出」の取り組みと、被災町民ならず働きたいと言う方々の、雇用支援に取り組みたい。その受け皿としての行政制度・意識改革をしていきたい。

早く手を合わせる場所を

2011-07-16 17.16.55
志津川からの歌津の入り口の歓迎の看板で、まだ、千羽鶴もない被災直後の、瓦礫が散乱していた頃の写真です。
初めて殉職遺族の方に、行政が防災庁舎の件を説明した。あれから2年7か月が経つ今である。11月2日に慰霊祭が庁舎前で持たれ、防災庁舎解体前にあたり開催される。「遅い!」と家族は言う、当然の事である。防災庁舎解体だから慰霊祭にあたり家族の皆さんに通知をだした。防災庁舎解体前に家族には多くの庁舎を通した要望がある。これには行政は「ノー」と答えたと昨日聞いた。
慰霊碑の建立は前々から行政に、町内で亡くなられた家族は要望するも、行政は「いま計画中」「祈念公園の準備が整ったら」と一向に慰霊碑を建てる気配すらない。
そんな折に「生協」と「全優石」の二つの団体による、津波記憶プロジェクトの話が私に来た。とりあえず町民からこの計画に対する考えを聞いた。誰一人反対する人はいない。防災庁舎にこだわる事無く早期の来町者の手の合わせられる場所、勿論家族もそれを願っている。
プロジェクトは慰霊碑ではなく、津波の記憶の「モニュメント」としての計画であり、町と地域・子供達が一体となり進めるが、団体の希望である。
家族の要望は「名前を刻む慰霊碑」で、私も家族も名前に触れ故人を忍ぶが、多くの亡くなられた一人に触れ合う事に繋がると思っている。


福祉の町の再生は何時に

2011-04-29 12.53.19
福祉の町の石碑が立つこの場所は、老人ホームそしてディサービスで多くの住民が亡くなった。デイの日だった入谷地区の人が命を落とし、安全安心の老人ホームで多くの人が亡くなった。
チリ津波を基準にし「5.7m」の防潮堤が建設され、この高さを遥かに超える津波が町を襲った。今回は最大23mに達し、福祉の里も15mもの津波により、高齢者やそれを守ろうとした人達が殉職した。
合併時の特例債は防災の為に使われたが、この経費は防災対策の防災無線に活用され、津波の意識・行動対策の啓蒙の改革に、もっと使うべきだったと、今となって思う。
想定外の津波の襲来とは言え、人災の可能性を秘め死者・不明の拡大があった。現在は8.7mの防潮堤に10mの道路と、それと同じ10mの嵩上げが最終の津波対策となり、復旧復興が続けられている南三陸町です。
方向性は国県の指導の下で、町長が決めて、これを議会が最終の採択をする。一方的な政策に動けるようにと策略し、議会の多数派工作が今行われている。町民の決定権は町長・議員の選挙であり、これにより町民の為の町づくりが実現する。

震災復興の選挙なのに打算ばかりが見え隠れ


議員選挙も無競争という事で手を上げたと言う話を聞く。
昨日も立候補を取りやめたと言う情報が入った。「何のための」「何をしたいのか」、立候補をしようとした信念・覚悟は、その影にある「我欲」と言う打算が政治にはあるのか、震災復興を目指す南三陸町は、どこかが違う。
私の議会の真の仲間は決して「ぶれる」事はしない。先輩が「集大成」とした、最後の一般質問の熱意は今でも鮮明に覚えている。水の大切さ、町の基幹産業としての農業の堅持、道路は山を通し津波からの最大限の防衛と、最後まで町長に訴えた。
鈴木先輩の意を貫く覚悟で議会選挙に臨みたい。

天候も選挙も荒れ荒れ


来月の11月2日、防災庁舎が解体決定による「慰霊祭」を、庁舎前で町が行う。勿論、主催者は佐藤町長である。当然の事ながら慰霊祭の防災庁舎での開催も遅い。
昨日時点での町長・町議選の出馬の動向を話したい。議長の殉職で現在15人の議員がおり、3人が勇退した。立候補説明会には、町長選は2人が来て、議員選は現職12人に、志津川本浜出身者の36歳があり、私と同じ行政区である。前回の町長選で敗れた佐藤氏が議員として再出馬、入谷1人でもう一人の方は共産党員として後継で立つ。歌津地区からは元町職員の女性が立候補し、一昨日になり戸倉地区コミニティ会長が、選管に書類を貰いにいった。未確認情報だが県会議員選に出馬し落選した方が、町長・議員の両方の選挙申請書を選管へ貰いに行ったと言う。あくまでも話として聞いた。
これが今日までの南三陸町の選挙の動きです。私には与党の議会の数合わせであり、もう一人の町長選参戦は、現在の復興の在り方を問う、町民の審判に水を差す気がしてならず、志津川からの出馬は現職の優位なにものでもない。この人の動向は前から議会でも囁かれ、町内の話題性ながら町が被災しての現状で、混乱と私は思っている。普通の在り方での選挙への参加が何故出来に伊のか、不思議でもある「選挙戦略」なのだろうが。

被災地の現状に危惧ばかり


震災直後から二酸化炭素のオゾン層の破壊による、気候異変への行政に準備と対策をと言い続けてきた。2011年の震災の年も大きな台風・爆弾低気圧により、自然の猛威に町は混乱した。道路の冠水は地盤沈下をした市街地全土に影響を及ぼし、交通のマヒへと発展した。
防災対策本部のトップの天災への危機感の欠如を私は常々思っていた。チリ津波の大災害を将来への警鐘ではなく、観光への転換を模索し実施ていた。今回の大災害でも復興よりも商工・観光の面が大きいと私は感じている。
現在また太平洋上に台風が発生した。今回の伊豆大島の一時間に120ミリは、13名の死者と50名余りの不明となっている。島民はこんな事は経験した事がないと口々に言う。山に覆われ海岸の狭い地区への町の形成があった南三陸町、大雨による造成地の赤土の山肌のもろさが心配でならない。
気候の安定している季節に、工事の加速と危険な場所の対策を講じていく必要性を思う。

公共用地の有効活用を

2011-05-06 14.55.39
被災した後は避難所そして2次避難所と、被災住民は場所を変え生活を続けた。行政の指示されるままでそれに従うしかなかった。
町の高台の土地としては、アレーナの沼田地区があり、入谷の「ひころの里」の寄付された広大な土地があり、黒崎のホテルの上のテニスコートと、緊急ヘリポートがあった。その場所を被災者の「新たな仮設・住家に」と行政に提案するものの、「使えません」「活用はできない」と、答えは同じだった。幾度となく繰り返すも、町の土地で在りながら黒崎は「転売」できるよう、土地の地目を変えたとの話しも聞く。町民の土地なのに、いったい誰の為の南三陸町なのかと、強く行政に訴えた。
私は町民をこの町に残す事で、行政の住民サービスの加速へと、進まざる負えない状況が生まれると思っての提案だった。人が住めば商店の再建も早く進めなければならず、行政が住民生活重視の行政政策に取り組まないといけなくなる。これを避ける為もこれまでの行政施策にはある気がする。住民の流出対策はいまだに講じるも、減少は続いている。
写真は現在の病院と役場のある場所で、以前は多目的広場だった。緊急の自衛隊のヘリポート場に利用された。鈴木春光先輩は「病院の本設を」と、最後まで仮設の病院建設に反対し、私も意を同じくする仲間として、行政の提案に反対した。とにかく町長の提案に賛成という与党がいた。

行政職員も被災者と共に

2011-04-11 07.54.48
震災直後の時に一日も早く世界に情報発信をと、パソコンの打てるタブレットを購入し、初めて撮った写真がアリーナだった。
何故に高台移転が遅いのかを専門家が話していた。「コンクリートから人へ」と政権交代があり、公務員の削減や建設会社が淘汰されていた、震災前の状況があった。被災地では自治体からの派遣はあるものの、他の自治体は専門職や職員派遣できるくらい、余裕の環境にはないのが今の自治体の状況があった。建設会社も公共事業の減少で、ゼネコンとは言え厳しい状況のさなかで、今回の1000年に一度の大災害が発生した。この現実がある中で自治体の復旧復興がある。遅れている原因とは言え、工事の進捗は被災自治体の復興の形に違いがある事での、復興速度がある。ちなみに南三陸町は最低と報道に数字があった。
情報発信は震災10日後あたりから、東京の従弟を経由して被災地の状況発信をした。当初は200件を超えるアクセスが毎日のようにあった。
職員の給与「5%カット」と、職員の定年後の「再任用廃止」で、若者を広く雇用する事はできないかと提案するも、行政の答えは出来ないだった。

もっと今の透明な情報を流して4

2011-04-18 08.56.40
現在、高台移転の議論の中で、「個人情報」の厳守を行政は言う。住民の要望は高台移転にあり、私が被災者にお会いする時に、誰一人として行政の「個人情報の厳守」を、と語る人はない。
幾度となく意向調査を初めとする、連絡・郵便が被災者に届けられている今、多くの個人情報は人の目に留まっている。
26年初旬には志津川3地区の高台移転の希望者が、高台地区ごとに戸建の方々が一同に会する予定となっている。戸建は482戸から435戸と、調査を重ねるごとに減っている気がする。初めの戸建希望者は未定が2割もあったが、やはり他の場所への移転を考えていた。
写真は仲間が被災から1か月目に、倉庫前の空き地に作ってくれた露天プロで、2回は入っただろうか、この暖かい心に今でも感謝し、当時の何もできなかった混乱の行政を思う。町民個々が苦しさの中で頑張って生きた時を私は忘れない。苦しみ悲しみ怒りをバネに、住民が今後も生き抜いていかないと、南三陸町の再生はない。

震災で亡くなられた方はあなたを見ています3

2011-05-04 11.09.04
2011.5.4の細浦地区の姿です。寺院の観音様は震度4以上が3分間も続く中で、倒れる事なく地域を見つめていて、現在もなお復興の歩みを見つめている。
大変な環境に今も町民の皆様はあります。このスピードでの前へ進む形は、町民の総意とは私は思えなく。苦しい状況下でも、未来の私たちの住む故郷でもある「南三陸町」のために、一日も早く一歩となる結果行動をお願いしたい。
町を動かすトップそしてその監視役としての議会議員の選挙での投票は、どんな町の震災復興そして新たな政策での迅速化を図れるかが、町民皆さんの選択に委ねられている。
10月27日の投票には行って下さい! 投票率の低下が囁かれています。「議員何やってんだ」と最近多く声を聞きます。議員の個々は自分の持っている部分を発揮していると思います。しかし、それが町民皆さんの考えに合致するかと言えば違います。
4000億以上の予算が10年間で、復旧復興に使われます。行政トップの住宅再建への独自支援はあるものの、高台の造成が進まない限り、その活用は町外への住宅再建へと加速しています。それが志津川地区での戸建の減少、公営住宅の減少となっています。以外の地区は防災集団移転で設計計画も出揃い、土地の住民確保も決定し、待つばかりと言う状況に安堵しているのが現状です。

情報漏洩の調査不明のままで2

2011-06-12 12.40.49
行政体制に不安を抱いているが、「震災自治体だから」とはいつまでも言っていられない。NHKの記者に「この町は悲劇の町から・・・」と言う話した事を思い出す。
NHK放送に対し殉職家族から「放送倫理審査委員会」に、放送への抗議がされている。結果についてはその後何も聞いていない。町からのNHKへの抗議も「情報収集の経緯は教えられない」と言う。それ以上の町からの抗議も調査もない。この結果に深く追求しようとする気が無いようだ。
震災直後から、中瀬町仮設に密着していたのが、NHK仙台の女性記者だったと思う。町長の取材担当として、町の対策・被災者の仮設生活・町長の生活、心情を聞き取り取材をしていた。当時の問題に「トレーラーハウス」があった、支援団体からの支援品であるトレーラーを、私物として家に持ち込んでいた。これは指摘後に別の場所に移され、現在も町への支援者が使っている。このトレーラーでの取材も二人の中であったと聞く。情報発信側と情報収集としての関係の間で、「被災の町からの「情報発信」と言う互いの利益がこの関係にあり、当然の事と理解する。しかしながら、密室の二人のやり取りがある。3.11のドキュメントでは町長自らで食事を一人で取る姿が放送されていた。勿論、ドュメントの最後のテロップには、彼女の名前もあった。
報道各社の情報収集・報道合戦が震災直後の南三陸町ではおこなわれた。写真は津波後の城場地区にあった志津川保険センターで、海からは1K以上も離れているのに、船が仰向けになっていた。道路の復旧は避難場所だった志津川小学校への応急の開通である。

行政の情報漏洩が不明のままで1

2011-06-11 09.15.50
震災直後の議会質問で「行政のモラルの欠如」あり、「情報の保守」の問題は未だにその訳が判らないままである。
町職員の防災庁舎屋上での命を守った行動が、役場職員の情報収集係により、カメラに収められた写真が、記録媒体(メモリーチップ)により、撮影記録された。
震災直後はベイサイドアリーナの事務所が、緊急対策室として設置され、ここに保管されていた。多くの役場職員の悲劇の現場となった光景・津波襲来の記録が、職員犠牲者の家族の承諾も無いままで、町のホームページに数枚がアップされ、その悲しい光景の前後の写真が、全国の目に留まる事となった。家族の一部がそれを見つけ、知る事となったのは、数日が経ってからの事で、多くの情報発信への批判から、ホームページからは抹消された。
その後「震災一周年」の南三陸町の町長の被災地で奮闘するドキュメント報道が、NHK仙台によって報道された。ここでも庁舎の屋上の写真が使われた。行政の当時の担当課の企画課長は、「どうして情報が流出したから判らない」と言う。対策室のパソコンに誰が触れるだろうか。これが出来るのは行政の町長おらび幹部しかいない。それが「高台移転での個人情報が」と言う事は、工事の遅れに住民の移転が早期決定する事への、町民の非難をかわすがごとくのようだ。

南三陸町の賑わいの町並み 志津川地区④

大型スーパーと高齢者の足


27年に御前下地区に震災前にあった「ウジエスーパー」が出店を予定している。個人の事業者が被災地で再建するためには、行政の協力なしに建設は難しい。議会で買い物弱者ならず被災者の買い物の場の確保を訴えた。選択肢のない品数・生鮮野菜などの、食に大切な物のビタミン不足がある。その改善にスーパー支援を質問した。
町長は「勝手に建てて下さい」との言い方で、「海に近い10メートルの盛り土の土地に本設をお願いしたい」と話した。この場所は河川堤防と高台移転地3カ所を結ぶ「高台横断道路」の係わりもあり、今直ぐの建設は難しいのは判るが、労働の場・商品多様化・選択の自由など、買い物には欠かせないスーパーの特性の買い物ができない。行政が町民の要望を叶えようとしない現状に、トップの個人的政策の横行の部分が見え隠れする。
水尻川の水門は国の復旧工事の期間5年があり、河川堤防・防潮堤も含めた防災工事は残り、2年3か月で終わるだろう。28年2月がその期限と思う。これと密接な大型スーパー開店の関係がある。

南三陸町の賑わいの町並み 志津川地区③

南三陸町の賑わいの町並み 志津川地区②

南三陸町の賑わいの町並み 志津川地区①

4年間の議会活動を会報で報告②

パンフレット ‐ 裏

4年間の議会活動を会報で報告①

パンフレット ‐ 表紙
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千葉のぶたか

Author:千葉のぶたか

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