「友だち作戦」はアメリカ軍が大震災で南三陸町などの被災地救助にとった救援活動名です。全世界、全国からの支援により、南三陸町は復旧復興への道を歩んでいます。南三陸町のみなさんは全てが友達であり一体となり、喜び、苦しみ、悲しみを共有しながら、共に南三陸町で今後も生活して行きたいと思っています。

町民のための議員としての原点はここから

2009年10月の選挙

2013年10月27日町議選挙
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仮設生活も終わりだが不安の声も


入谷地区の2仮設を廻った。旧入谷中学校仮設は33世帯のと有るが、昨日現在で10世帯となり、来月中には5世帯が住宅再建により移転して行くと言う。岩沢仮設は18世帯ながら、昨日も引越しの入居者が引っ越し業者による、2代のトラックと共に、移転地へ向かっていた。ここも5世帯前後となり、今後の移転を不安視している住民の声も聞いた。

午後は登米市南方の仮設に向かった。震災後に一期は200世帯で、二期は150世帯の合計350世帯の、南三陸町の最大の仮設は登米市に建設となった。
現在は一期が30と二期が35世帯残っている。住宅建設の高台移転の土地の引き渡し、ハウスメーカーの順番など、未だに「終の棲家」への移転とはならないと口々に言う。福袋の支援の方達は「空室」となっていない仮設を、一軒一軒に声を掛けて回る。住人が在宅していると「ありがとう」「嬉しいです」など、感謝の言葉が掛けられた。50個の「愛の福袋」を持参したものの、まだ10個余りが残っている。
そして、帰りに津山町横山「駅裏仮設」にも寄った。ここは一期二期と合わせて23世帯が居ると言う。仕事に出ているせいか在宅で支援を渡したのは4個ぐらいだった。まだあるので民宿までの途中に「沼田1期仮設」に回り、4個を配った。できるだけ被災生活者へ福袋に手紙を添え渡した。6月末で退去すると総ての住民が言う。

会員の皆さんの暖かい声と、こんなにも多くの仮設を廻っても住人が居ない事は、復興が進んでいる事と会員皆が口を揃えて話す。今回で私も一つの支援の受け皿の活動の区切りと思っている。


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志津川市街地の浸水域の復興工事進む


決して自虐的な発言ではなく、これが現実です。
後継者問題も事業所継続には厳しい現実があり、街中の仕事も年々減少し、共に支え合った人達も廃業し、静かな老後を送っている。好景気の中では待っていても仕事はあり、営業しても「大変だから仕事をあげます!」など、そんな奇特に人間がいたが、もういない。
楽な仕事と高給だけを求める今の若者が多い中で、苦労と努力を好む人間は居なく、今の仕事の「終活」に踏み出している自分がいる。

徳島県の後継者問題への取り組みをしていた。俳優をしていた男性が、県の誘いで「ゆず加工会社」との後継としてのマッチングに取り組んでいた。
70歳の女性は7人のパートを雇用し、売り上げは4千万と言う。これまでの独自の製品開発で地元のゆずの加工品を販売していた。後継者も居なく今後を考える中で、県が後継者の確保に乗り出した。
県内の雇用を守り地元の農業産品の活用など、県にとっても欠かせない地元企業を守る活動をしていた。1年間の給料を県が保障をしての、ふるさと創生の新たな取り組み事業だった。勿論国からの支援を充てこんで事業支援と思う。

地元の大事業所が私の町でもあり、国・県からの支援を町を通し拡大している。限られた水産会社への支援は、将来の町づくりの基礎をなして行くのだろうか。

震災後に私の知らない事業所やNPO活動が、町にはいっぱいできている現実を、毎日のように知る。時代の流れなのだろう。町外からの新たな人材は、町に生きる事業所への支援は限られた部分で、震災後に新たに生まれた仕事は、「南三陸町からの手紙」で、支援活動が多少収入として一時期あった。でも「震災の風化」は、全国の「消えた町・南三陸町」の記憶も忘れられる時期が来た。

自分の一生の越し方のクライマックスが来ている。後継者が居ない事もあるが、他の人とて子供がいても、決して後継者とならない今の現実をテレビは報道している。多くの仲間と「子供はあてにしない!」と言う。本当にそれで子供も親も良いのだろうか。こんな事からも町の疲弊と人口減少に繋がってい居る。

商店の住民を含めた町づくりを


変化と分裂を続ける女川の商店街。
半年ぶりで訪れると新たに「ハマテラス」が併設され、駅前には交流の出来る施設が出来ていた。周辺にも郵便局や飲食店が再建されていた。市街地の発展は目覚ましく、住宅も商店街から200mの場所に建設されていた。どこか違う町づくりと商店街の整備だった。これが私の掲げた「コンパクトシティー」なのかも知れない。
以前の商店に新たな店舗ができ、魚の町と新鮮な地物の水産品を販売し、地物の食事処もオープンしていた。
多くの各種多様な水産加工品が5店舗、ピザ・ムール貝・ホタテ焼きなどで、フードコーナーの種類も豊富で、値段もリーズナブルだった。「蒲鉾の高正」は施設に入っているが、特別の雰囲気も醸し出していた。総ての水産会社・商店主が片寄せ合う形を成していた。設計者は決して有名でもないのに斬新な商店街の形を創り上げていた。
多くの商店が加わり一緒に商店街を形成する姿がここにはあった。被災地は良い所は互いに見習い真似してもイイと私は思う。他から学ぶことをしない事で、自分本意になってしまう。私もだが。
しかし、心配は海に近いし嵩上げも低い事だ。避難道路の多くの整備が必要と感じた。

南三陸町の現在の住宅と遺構の状況


志津川地区の仮設を廻る時に、「戸建が一列空いてます」「3DKが集合住宅で入る人がいないです」など、町の人口の減少の姿を知る事ができる。予定していた造成地も空地が埋まらない状況が見てとれ、空き地の対策が厳しい。
被災住民の意向を聴き取り、災害公営住宅の部屋数を建設し、土地希望者にも何度となく確認しての造成工事なから、6年目の復興住宅の完成と、土地整備の完成は、余りにも遅すぎたようだ。最初は家の新築を考えていたが、長い仮設での生活で今後の生活を考えると、復興住宅での生活を選択したとの声が大きい。二重ローンも払い続けている被災者も多い。
三世帯で3DKは世帯収入からの家賃の算定は、最高で「7万8千円」だった気がする。この金額だと年間で「93万6千円」で約100万円掛かる事になる。10年間で1千万となり、世帯主はその無駄で、町での土地整備が早期に進まないと言う事で、町外での住宅再建の生活を選択している。

宮城県の「震災遺構」については、東松島市と荒浜小学校の二つが復興庁の指定を受け、交付金が出ているとテレビで聴いた。石巻市の大川小や気仙沼市の向洋高校、そして南三陸町の防災庁舎は、遺構としての指定がなく、維持費や遺族との問題もあり、「震災遺構」としては認められていない。この実状はいったい何なのかと思う。町としてやるべき事があるだろう。鉄骨の防災庁舎は錆びて朽ちるまでの、見せ物として町は残しているとか考えられない。自分の任期の間だけ、自分の保身として見てしまう。

29年の町の動きと志津川市街地の再建進む


3月・4月と10mの嵩上げの旧市街地の再建が始まった。現在は電気店と蒲鉾店の建設が始まっている。我が社は「震災風化」「津波被害の伝承」「津波物故者の記憶」など、町の町民の記録保存と語り部の活動を計画している。

29年1月(2)
◆南三陸町内の高齢者の介護予防を目的にして開講している「おらほの笑楽校(しょうがっこう)」が10日、志津川東復興団地で開かれた。防犯講話や餅まきなどで楽しいひとときを過ごした。
◆志津川高校の2017年度入学志願状況で、普通科定員72人に対し53人、情報ビジネス科34人の定員に4人が出願した。気仙沼地域では、向洋高校の産業経済が1・35倍で最高だった。
◆南三陸街歌津の寄木浜での伝統行事の「ささよ」が15日の小正月に行われた。小中学校生の減少により、参加者が少なくなってはいるものの、地域の住民は孫にも引き継いでもらいたいと話す。
◆三陸道の志津川ICの開通により、これまでは三滝堂までの通行だったものが、登米以北の開通により、利用者が4~6割増えている。
◆南三陸町フットサル大会が15日歌津中体育館で開催された。中学生から50代まで10チーム80人が参加した。①FC・PAPA+2②Vamos
◆気仙沼市薬剤師会加入の薬局が「まちかど相談窓口」の開設から1ヵ月を迎えた。薬剤をはじめ、健康や介護などの相談を一体的に受け付けている。利用は常連が中心ながら、身近な存在をPRしている。

『ウジエなどの3店舗が入る「ショッピングモール」が7月の開業に向け、地鎮祭が17日に志津川中央団地の45号線向かいの天王前地区で開催された。オープンにあたり従業員は地元を中心に募集している。』

◆熊本県南阿蘇村の23人が17日、語り部事業を観光につなげようと、南三陸町を視察した。

民間の活動が少ない事が寂しく悲しい。

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Author:千葉のぶたか

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